ジェームズ・キャメロン監督『アバター』感想

 twitterほっちゃんが見に行ったってつぶやいていたので、今更ながら見に行った。
 ネット上でちらほら、「映像はすごいけどもそれだけの映画」というようなコメントを見かけていたので、まあそうなんだろうなと思いつつ見始めたのだが、見終わってみるとそうでもなかったような気がする。これまでの映画を殺して、新しい映画に生まれ変わろうとする、そんな力強い意欲を感じられる映画だった*1。「見ること」の変革、とでも言うか。片目のクロースアップショットで始まり両目のクロースアップで終わるこの映画は、徹頭徹尾、「映画」と「見ること」に意識的であるように、私には見えた。3D上映という古くて新しい技術との結びつきで、映画は変わりつつある。「映画を見る」ということの意味が変わりつつあるということである。その変化を、その変化だけを、この映画は描いている。散々指摘されていることなのかもしれないし、あるいは私の独りよがりかもしれないが、少しだけ、しかも大急ぎで感想を書いておく。
 この映画が、眼球のクロースアップショットから始められるとき、多かれ少なかれ、私たちは「見る」ということを考える。映画は見るものである。映画を見るのは誰か?もちろん、観客である。多くのハリウッド映画において、主人公は観客が感情移入をして見つめるべき存在である。その主人公の眼球が大写しにされるとき、観客との重なりが強く示される。類似、同一化。そして、さらなる類似点がある。この映画の主人公は車椅子に縛られているのである。まるで、映画を見ている最中はおとなしく椅子に座っていなければならない観客のように。まさに観客のアバターとしての主人公。映画においては、主人公は不自由な観客の乗り物である。観客は主人公に乗ることで物語世界を見て回ることになる(テーマパークの乗り物のように)。この映画の構造が、この作品においては、作品内で言及されている。不自由な観客は主人公に乗るのだが、不自由な主人公もまたアバターに乗る、このような二重構造。映画の観客のようにアバターという乗り物によってパンドラを見て回っていた主人公は、だんだんとパンドラに深入りしていくわけであるが、その関係の変容が、類比的に観客と主人公(映画)の関係の変容でもある。単純化していってしまえば、「見ること」から「触れること」への変容である。
 「触れること」という表現は適切ではないかもしれない。たしかに、この映画の中では接触によって、より高次の認識を得られるというような描写が頻出するのではある*2。けれども、それもまた全て「あなたが見える」という視覚的な表現に置き換えられる。映画はどうしても「見ること」から逃れることはできない。「よりよく見ること」にしか移行できないのである。見るということには隔たりが付きまとう。だから、こそ「科学者は観察する」とこの映画の中でも言われる。見ることは隔たりを伴うがゆえに、科学を可能にする(客観的な視座を与える)。映画を見るということも同じである。どんなに主人公に感情移入をしても、常にそこには超えられない隔たりがある。絶対に映画には触れることはできない。けれども科学者の限界もこの映画は描く。「よりよく見ること」が必要なのである。それは、旧来の映画と3D映画との間の差異そのものである。
 3D映画もまた絶対に触れることのできないものではあるが、まるで触れられそうなほど近くに映像を感じるのは確かである。その体験の差異、それ自体が、この映画では描出されている。映像がすごい映画というのは古今東西数多く存在するかと思うのだが、3D上映技術に伴う「映画」と「観客」と「見ること」の変化それ自体を描いているという点では、この映画は単に視覚的な驚嘆を与えてくれるというだけに留まらない作品であるように思う*3


 詳しく見ていかなければ分からないが、最近の作品で言えば、『アバター』と『涼宮ハルヒの消失』は並べて語られるべき映画だと思う。どちらも分身する映画、鏡の映画だからであり、また「見ることと触れること」の映画だと思うからである。私自身の『消失』評は、どこか別のところで書くことになるような…。


 大急ぎで書いたので、いつも以上に乱暴なところがあるかも。しかも、すごく当たり前のことを書いてしまった感。

*1:作者の意図を思わせる表現を使ってしまっているが、作者の意図について何か言及しようとしているわけではない。私にはそう見えた、ということしか私は語らない。

*2:主人公が最初に族長に握手をしようとすると強く拒まれたり、主人公が一族に認められると一族の人間が彼に触れたり、動物と神経?を直接接触させたりetcetc...

*3:ただし、この映画が「新しい」かというと微妙なところである。映画はその誕生においては単に「見る」ものではなく、もっと濃密な体験であったかもしれない。列車が駅に到着する映像を見た観客が、列車が突っ込んでくると思いパニックになったという逸話は有名であるが、それは映画が現実的な体験だったことを意味しないか。また、かつては座席が映像に合わせて動く、まさにテーマパーク的な映画館(?)もあったらしいが、その時代においては映画は単に見るものではなくより具体的な体験だっただろう。私は映画史など門外漢なのだが、『アバター』は映画史的な回帰でもあるんじゃないかな。いや、知らないんだけど。

『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』第七話「蝉時雨・精霊流シ」感想

 続けて感想を書いているとだんだんと自分の思考と嗜好が濃くにじみ出てくることに気づいた。


◆二元性とその崩壊
 前回・前々回あたりから、私はdualité、すなわち二重性あるいは二元性にやたらと固執しているわけだが、そもそもこの作品の根幹には新時代と旧時代という二元性が据えられているということを思い出させてくれる挿話だった。過去・現在、そして生・死の二元性。前回第六話の感想では、二元性が二つに分裂したまま、宙吊りにされているということを述べた。それは、二つのもの(たとえば偶然と必然)のどちらかが決定不可能であるという宙ぶらりんの状況であったのだが、今回第七話においては、別の意味での決定不可能性が現れているように思う。二つのものから一つを決定できないという不可能性ではなく、本来二つであるはずのものを二つにできないという不可能性。あえて指摘するまでもないことだが、この挿話では、画然と分かたれるべきものが、渾然として、二元性が崩れかけるのである。
 この第七話はフィリシアを中心に物語られている。そしてそれゆえに、二元性の崩壊、決してありえない越境は、主にフィリシアにおいて起こる。フィリシアは現在にありながら過去へと入り込み、過去においては更なる過去と出会う。例えば、彼女は陽炎の中に亡霊を幻視する。過去は皮膚から零れ出る真っ赤な血液のように、その境界を破り、現在へと侵入してくるのである*1。越境。過去においては、彼女は地上から地下へと落下することで、越境してしまう。地下、死者の世界。そこで、死者は生者のように立ち上がり語り始める。本来あるべき境界が相互に侵され無効化されてしまっているようにも思える。この第七話が過去のシーンから開始されるということも、二元性を脆くさせる一つの要因ではあろうが*2、しかしフラッシュバックは過去と現在を並置することはあっても、その境界を壊すことはない。境界を接した接触ではなく、境界が乗り越えられる場面、そして境界なき接触を見逃してはならない。現在のただなかに、境界を失った過去が現れる場面を。そんなものは見逃しようなどないのではあるが。
 二元性が崩壊するということは、最終的には旧時代と新時代とのあいだの境がなくなるということに結びつく。既に滅びてしまった旧時代と未だ滅びていない新時代が重なることは、つまり、新時代がいずれ滅びるものであるということを意味する。二巡目の世界。
 

ニヒリズムとその克服
 いずれ終わってしまう世界(あるいは既に終わってしまった世界)で生きることは、ニヒリズムを誘うだろう。事実、この挿話では複数の人物が生きることの無意味さを、逡巡しながら、あるいは断言するように、口にする。もう世界に何の未来もないのであれば生きる意味などないのかもしれない。それでも、フィリシアはこの残滓のような世界を生きることを選ぶ。前向きで良いお話やなあ、と思う。世界が「ひと掬いの泡」のように儚いものでも、暮羽さんが吹いたシャボン玉がきれいなのは確かだ。花火だってすぐに消えてしまうものだけれども、それでも華やかに煌いて美しいのは確かだ。ふと、大学の講義で目にしたこの文章を思い出した。
 

 われわれの行為や関係の意味というものを、その結果として手に入る「成果」のみからみていくかぎり、人生と人類の全歴史との帰結は死であり、宇宙の永劫の暗闇のうちに白々と照りはえるいくつかの星の軌道を、せいぜい攪乱しうるにすぎない。いっさいの宗教による自己欺瞞なしにこのニヒリズムを超克する唯一の道は、このような認識の透徹そのもののかなたにしかない。
 すなわちわれわれの生が刹那であるゆえにこそ、また人類の全歴史が刹那であるゆえにこそ、今、ここにある一つ一つの行為や関係の身におびる鮮烈ないとおしさへの感覚を、豊穣に取り戻すことにしかない。
 真木悠介「色即是空と空即是色」
 

 
◆「無意味」を生きることと『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』という「空気系アニメ」
 結末に虚無が待ち受けている世界において「成果」に着目することは無意味である。世界が終わるということは成果としては何も残らないということであり、必然的に無意味へと至る。そのニヒリズムを乗り越えるためには、「今、ここにある一つ一つの行為や関係の身におびる鮮烈ないとおしさへの感覚を、豊穣に取り戻すことにしかない」としよう。そのためには、過去形で語りだされる歴史=物語ではなく、現在の物語が必要なのである。それは一般的にイメージされる歴史的展開を描いた物語とは異なるものになるだろう。ひょっとすると、「空気系」*3などと呼ばれるような物語になるのではないだろうか。通常は「物語」には汲み取られない、細かな行為・関係・出来事に着目し、それを称揚することで、ニヒリズムを乗り越える次元を拓く。そのように考えたときに、歴史=物語の終末が一切の虚無であるという事実(?)が、『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』という「空気系アニメ」を肯定しているようにも思える。
 「別に過去とかは匂わすだけで完全無視のキャッキャウフフでいいじゃんよ」*4とは私の思いでもあるのだが、「キャッキャウフフ」することの理由が、過去といずれ訪れる未来にある、ということが示されている、というか。
  

*1:ナイフで手を切るシーン。

*2:慣習的に、開始を物語上の現在に置いてしまいがちだが、物語上の現在はそこではないというちょっとした錯綜。

*3:「空気系」がどのように特徴付けられる「ジャンル」なのか、私はよく知らないので、緩く考えてもらいたいのだが。

*4:http://yunakiti.blog79.fc2.com/blog-entry-4700.htmlより引用。

『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』第六話「彼方ノ休日・髪結イ」感想

 今回もあんまり書くことがないのに書いてみたら、とりわけトンデモぽくなった。前回第五話の感想で、外見と内容のズレについて語ったが、今回第六話ではそれがより顕著であるように思う。ズレを「二重性」と換言してもよい。前回はズレが解消されることはなかったように見えたが、今回は部分的には解消され、部分的には解消されないままであるように見える。二重性が二重のまま、どっちつかずの宙吊りにされている。


◆二重性
 二重性が現れているように見える部分を、大雑把に挙げてみる。まず、砦の本業と副業の二重性。副業を知らない彼方と、副業を隠す部隊の面々との二重性。さらに、部隊の面々の変装、そして小芝居の二重性(真相と偽装)。Aパートだけでも、このように次々と二重性(二つの面を持つということ、あるいは見え姿が偽装であるということ)が現れる。Bパートにおいても、ミシオさんの行為と本心の二重性などが見られる。
 けれども、もっとも大きな二重性は、Bパート冒頭において、私たちに姿を見せることになる。Bパート冒頭では、Aパート冒頭の数カットがそのまま反復され、同じ時間を別の時間から見つめることになるのである。BパートがAパートの語り直しであるという、この二重性に、ぼんやりとした興奮を覚える。


◆二重性、あるいは彼方さんとミシオさん
 AパートとBパートで描かれる二つの独立したアクションが最終的には交錯するように、つまり、二重性は解消されるかのように見える。たしかに、交錯=一元化によって、ミシオさんは失われていた箱を再び手にすることができる。二重性がパズルが解かれるようにほどかれ、それはそのまま寄木細工の箱が順々に開放へと向けられる様へと視覚化されて、最終的には箱が開かれ(ミシオさんの本心が暴露され)、ミシオさんとユミナさんは二重性に阻まれることなく親密な関係に収まることができる。
 しかし、一方で彼方さんはどうだろうか。たとえば、休日を満喫する彼方さんと任務(副業)に勤しむ部隊の面々との間のズレがなくなることはないように思われる。彼方さんは一致という満足に至れない。彼方さんは最後まで、砦の副業については知ることができないし、求めていた自分へのご褒美を入手しないし、梨旺さんとも親密な関係を築けない(梨旺さんは会話の途中で眠ってしまう)。しかし、この宙吊りが、実はこの作品の魅力なのではないかと私は思う。


◆二重性、あるいは偶然と必然
 既に述べたように、Bパートの一部でAパートの時間を別の空間から描き、反復しているため、この挿話自体が一つの二重性を有していると言える。言い換えれば、クロスカッティングという技法を採用することなく、二つのアクションの流れを愚直に折り返して連結することで、この挿話は二重性という積極的な意味を持つようになるようにも思われる。クロスカッティングという技法は、同時性の印象を強く生み出し、なおかつ複数のアクションがいずれは合流することを予感させるものであると思うのだが、それを採用しないことで、それぞれのアクションが独立した流れを持つものであるように感じられる(気がする)。独立した流れが、しかし、重なり合うということに、物語的な突出があるのではないだろうか。つまり、運命の問題である。クロスカッティングは偶然と必然をめぐる問いを、予め殺してしまうのかもしれない。すべての出来事に対して、それが偶然であるか必然であるかを問うことが可能であろう。そしてこの問題は古来よりいまだ決着のつかない問題である。つまり、この問題は永遠に二重性の中で宙吊りにされる。


◆サスペンスとしての『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』、宙吊りにすることの魅力
 唐突に問題のレベルを変えるが、たとえば一般的なフィクションにおいては偶然は認められない。物語の展開には因果関係、つまり必然性が求められる場合が多いだろう。過去にこういうことがあったから現在はこうなっている、というような歴史-物語的な発想が普通のことと思う。偶然に任せて物語を展開させると、ひどく支離滅裂に見えたり、極度のご都合主義に見えたりすることだろう。そのような一般的な理解に、『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』もまた従っているように思える。この作品は、あちこちに過去の断片を散りばめ、伏線を張り巡らしているかのようだからだ。しかしながら、一向に過去の断片は断片のままであり、伏線が回収され、大掛かりに諸々が明らかになるということはいまだにない。「なにがしたいのかわからん」みたいなコメントをtwitterで見かけたこともあったが、そう言われてもしかたのないほどの遅延ぷりだろう。
 しかし、私はこのあっけらかんとしたサスペンスが、結構気に入っている。多くの情報が示され、何かが起こっても全然おかしくないのに、何もおこらない、しかしいつ何が起こっても不思議ではない…という堂々巡りのサスペンス。一般的なフィクションの経験から、私たちは、因果連鎖的に物語が動き出すことを期待するのだが、それが飄々とはぐらかされる。この一般的なフィクションを馬鹿にしたような振る舞いが、ちょっとした快感なのである。いや、単なる変態なのかもしれないが。
 この挿話には、このサスペンスへの自己言及と称揚が見て取れるのではないかという気がしている。クロスカッティングを採用しないことで、大掛かりな二重性を生み出し、偶然と必然の終わらない問いを提出しているように思えるからだ。ラストの彼方さんと梨旺さんとの会話のシーンで、運命の問題を彼方さんが持ち出すが、梨旺さんが眠ってしまうことで物語内において決着は(やはり)繰り延べられる。無論、そのように私の目に映っているだけで、制作者の意図などは知らないし、実際のところ、このままこの作品がサスペンスを維持し続けるかというとそれはありそうもないことだ。だが、現状では、そこが魅力的に思える。もう散々焦らすだけ焦らして、特別なにも起こらないまま終わればいいのになー。


◆余談、イデアという終わりなき二重性
 この挿話中に、イデア文字による命名の場面があった。そこで父親らしき人物が名前を「顔」と言い換えている。結論から言ってしまえば、ここにも名・実の二重性が兆しているように思えるのだ。洞窟の比喩などが分かりやすいかと思うが、イデア論にも二重性がつきまとう。その二重性は終わることがない。ここまで二重性が見て取れると、やはり気になるのだ。事件が起こりそうで起こらないという二重性の宙吊りがサスペンスだとすれば、二重性とはサスペンスそのものでもあって、この作品はサスペンスに満ちていることになる。

『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』第五話「 山踏ミ・世界ノ果テ」

えーと、登場人物たちがかわいくて、これまででいちばん楽しく感じた回だった。明るくコミカル。けれど、本当にそうなのか。正直、あまり書くことがないのだが、少しだけ。


◆外見と内容のずれ
 外見と内容の食い違いが何度も反復される挿話だった。それが気になる。冒頭から戦車の訓練が描写されるている。それは私たちの目にはしばし実戦の様子にも見えるのだが、実は訓練である。戦車が走行しているかのように見えるカットも、実はバイクのそれである。そのようなズレから、この挿話は始まっているのである。冗談など言わなさそうな乃絵留さんが冗談を言うし、フィリシアさんの外見の白さと内面の黒さが話題に上り、クラウスさんもああ見えて実は「砂漠の狼」などと呼ばれる歴戦の猛者であるらしい。また、彼方さんたちの「遠足」は、遠足のように見えて任務であり、任務のようであって遠足でもあった。見た目と中身がぴったりと一致しないことの連続。だが、その連続は一体どこへとつながっていくのか。
 そもそも、この作品自体が、外見と内容とのあいだにズレを有しているようにも思える。戦争と終末の視覚的イメージを散りばめながら、女の子たちの和やかな日常を描く、あるいはこの作品をそのように評することは可能だろう。そのとき、この作品はズレそのものである。それはひょっとすると痛快なことなのかもしれない。明るくコミカルな遠足の果てに登場人物たちが世界の終わりを見たように、この和やかな少女達の日々の果てに何か悲惨なものを見ることになってしまうのだろうか、と私たちは期待してしまいがちだが、少なくともこの挿話はズレを一致に導きはしない。私たちの期待、「見たい」という欲望は、延々と繰り延べられる。作品は期待を裏切ることで、私たちの視線を奪う。この作品が最後まで戦争へと関わらないで終わりを迎える、デタラメなアニメだったらいいのにな。女の子のダラダラしているアニメが好きだからというだけではなく。


◆その他
 水。彼方さんたちが水遊びをしているあいだに、コンパスを盗まれるってのは、象徴的。神話に語られた火を抱く乙女のように、炎天下で渇いた彼方さんたちは、神話をなぞるように水に引き寄せられる。そうしているうちに、進むべき指針たるコンパスを失ってしまう。つまり、彼方さんたちは、いわば過去をなぞることで、迷子になってしまっている。一話の感想でもそのようなことを書いたが、それが反復されているようにも見える。迷いの入り口に水があり、出口にも水があるように見えるのも面白い。過去の先輩達の遺産である温泉につかる彼女たちは、すっかり現在の位置を取り戻している。
 サイン。手紙を受け取る際にサインをする。サインは受領した証である。それを忘れて見ていたら、監視装置の壁面に名前を刻む意味をはかりかねてしまった。先輩達から受け継がれてきたものを受け取る、そんな意味があるのかね。だから、「歴史」だと言われるのか。


短いけどこの辺で。感想のリストでもつけておくか。
『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』第一話「響ク音・払暁ノ街」感想
『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』第二話「初陣・椅子ノ話」感想
『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』第三話「隊ノ一日・梨旺走ル」感想
『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』第四話「 梅雨ノ空・玻璃ノ虹」感想

『バカとテストと召喚獣』第4話「愛とスパイスとお弁当」感想

パセラに行くと曲と曲との合間に『バカテス』の宣伝が流れていて、パセラで徹カラをすると23時から翌8時まで何度となくその映像を見ることになるのだが、それがね、何度も何度も見てると、本編を見ているわけでもないのにすっごく『バカテス』が好きになってくる。これは怖い。全然面白くなかったから一話で切ったと豪語する先輩も、3時ごろには「おもろいやないか…」と漏らすことになる。ほんまにパセラは魔窟や。いや、それとはある程度は無関係に、第4話が面白かったので感想。


◆「二」の氾濫
まるで「分身」のような召還獣の説明から始まるこの挿話は、「二」に彩られている。それは枚挙の暇がないほどであるが、具体的に指摘してみる。まず冒頭の「分身」的な召還獣。明久くんが口にする「復」讐と「復」習。化学「II」の教科書。カップめんの「2」分の1分割。美波さんの妹の「ツイン」テール。「二」つのお弁当箱。競合する「二」人の女性(美波さん・姫路さん)。アイキャッチでの問題=「相」殺。姫路さん(のお弁当)の「二」面性(見た目←→味)。明久くんの天使と悪魔の「対」立。鏡や液体への反射(re-flection)。背景のシンメトリー(左右「対」称)の多用*1。AランチかBランチかの「二」者択一。バイセクシュアルらしき(?)男子学生。リサイクル。同じような台詞やシーンの「反復」。etc...


◆美波さんのジレンマ
いま述べたように、「二」の反復と変奏の溢れかえる挿話だったのだが、それらは美波さんの「ジレンマ」へと至りつくものであるように思われる。お弁当を渡したいのだけれど渡せない「相反」。男と女との二項対立のアンビヴァレントな感情は、二度、明久くんと美波さんを画面の両端へと遠ざけてしまう。繰り返される「二」は美波さんのジレンマを深化させ、二人の人間を引き裂いていくようにも思える。組織的に分裂させられてしまったものたちが、けれども一つになるときが訪れるのだから、それは感動的と言わざるを得ない。夕暮時という魔術的な時間に、あたかも昼と夜とが交わるように、美波さんの二つの相反する想いは氷解し、離れ離れになっていた明久くんと出会う。その場面で、背景が赤と青の二色に分けられているのは見落としようがない。


◆まとめ
上手く書けない。なにが面白かったのか。
近づきたいけど傷つくのが怖くて近づけないでも近づきたい…というような、ありふれていてもうどうしようもないお話なのだが、「二」の反復と変奏の氾濫が興味をそそり(とりわけ、同じような台詞・シーンの反復は面白い)、それらが最後には美しい夕暮れへと集約していく、この過程にはパズルのピースが組みあがっていくかのような気持ちよさがある。いや、美波さんはとても可愛いので、別にそれだけでも十分なのだけれども、それだけというわけでもない、楽しい回だったなあ、と。そういうことか。

*1:多用、というほどではないかな。

『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』第四話「 梅雨ノ空・玻璃ノ虹」感想

雨、風、雲、光といった自然現象で、突出を創出する巧みさがすばらしいなあと思うのだが、どうしても消えない隔たりを感じる。よく出来すぎているから嫌いだ、なんて言うのは稚気でしかないだろうが、掛け値のない感情を言い表してもいるわ。


◆雨・雲
 冒頭から雨が降っている。灰色の雲が垂れ込めて、画面は薄暗い。雨に打たれる鉄橋や岩石も、非常に重苦しいもののように感じられる。この挿話は雨を真っ当に(?)、何か負の代理-表象として描いているように思われる。日常においても雨が降っていると気が重く感じられるものだが、その日常における雨の意味が、作品を見る上でも同じ意味を担う。雨の日の「重さ」が、不快ですらある拙い喇叭の音と、戦車修理の不首尾に、のしかかってくる。その三者は単に並行して存在しているのではなく、循環する関係の上に存在しているようにも見えるのが面白いところだ。とくに喇叭の不味さと修理の失敗は、見ようによっては、互いに影響しているようにも見えるようにつながれている。二つの問題は独立していない。だから、彼方さんの問題が解決すると、乃絵留さんの問題も解決するのである。雨を用いた演出自体は珍しいものではないかもしれないが、それが挿話の物語全体に重くのしかかり、そしてそれが最後には鮮烈なまでの雲と光の運動=情動を披露して消えていく、そのシークエンスの美しさは否定できるものではない。
 雨に濡れて、水がじわじわとしみこんでくる紙袋の描写も、とても好みだった。水の厄介さはその浸潤性にある。濡れると気持ち悪いのである。乃絵留さんの気持ちが、じわじわと水がしみこんでくるように、あまりよろしくない感情に侵食される様をまざまざと想像できて、それがすごく楽しい。


◆齟齬
 彼方さんと乃絵留さんの二人が、今ひとつ噛み合わない様子がこの挿話ではしばしば描かれていた。二人で出かけた車上での会話では、乃絵留さんは彼方さんの言葉に即座には反応しない。妙な冗談を言うおじさんのいる雑貨屋(?)では、二人は別々にフレーミングされ、彼方さんが乃絵留さんの方へと「越境」しようとすると、おじさんが邪魔に入る。車に荷物を積み込もうとしている場面では、乃絵留さんの言葉は、子供がぶつかってくることで遮られてしまう。また、乃絵留さんが会話の途中で眠ってしまうこともあった。そのほかにも齟齬と取れる場面はあったかもしれない。雨の重苦しさと二人の間の齟齬を冒頭から延々と見せつけられて、視聴者はすごく不安な気持ちになるのではないだろうか。その不安が、一挙に解決されるところに、この挿話の魅力があるように思う。


◆職人と手
 前述した二人の間の齟齬は、反復される二人が上手く手を繋ぐことのできない様子の描写でも、知ることができる。その齟齬は最終的には埋められ、二人は自然に手を触れ合わせることが出来るようになる。けれども、その帰結は、あいだにワンクッション置かなければ、やや唐突にも見える。どうして二人が打ち解けることができたのか。そのワンクッションが、「職人」なのではないかと思う。職人とは、「道具の道具」と言われる手を使い作業し、製作するものであろう。職人と手は結びついている。彼方さんと乃絵留さんは共に職人であることによって、手を結ぶことができるのではないか。
 この事態を、彼方さんの職人芸的音感で、乃絵留さんの職人的問題が解決されたことによるものだと考えても、全然かまわないわけだが。


◆光と音、あるいは「光の旋律
 よい光学センサーを耳で選別するというのは、なんとも象徴的なお話だと思う。視覚と聴覚、光と音の混淆が描かれているからだ。そして、この挿話ではあからさまに「光の旋律」が描かれてもいるのである。彼方さんの音は、雲をかき消して、光を導きいれる。その反復の連鎖が楽しく、また美しい。
 

◆ガラス――時間を留めようとする努力
 水と過去の結びつきについて、私は第一話の感想から延々と言い続けてきたのだが、それにも少し飽きてきたし、この挿話では水(主に雨)は既述のように、重苦しさの表象である。そこで、ここではガラスと水との類縁性について、少しだけ考えてみることにしよう(それもすでに一話感想で書いたのだが)。ガラスでイルカを象るとは、どういうことなのか。既に海が失われ、イルカは絶滅してしまっていると言われる。ならば、イルカを象ることは、どうしてもノスタルジックな性格を持つことになってしまう。そして、その像の材料がガラスであることに、何よりも注目せねばならない。ガラスは両義的な性格をもち、液体でもあり固体でもあると言えるような物質である。考えようによっては、ガラスが、そのままでは流れ出てしまい形を失ってしまう液体を、なんとか失わないように保持しようとする努力そのものであるようにも思えてくる。思えば、時間は古来から川の流れに例えられてきた。時間は流れる。流れて、消えていってしまう。そのような時間が具体的な形をとったものが、海とイルカである。既に失われてしまったイルカを象ったガラスの像は、まさに時間を結晶化したものなのであり、過去をなんとかして現在へと繋ぎとめようとする努力なのである。少なくとも、このように考える余地はあるように思う。
 この作品は、失われた旧時代へのノスタルジーに貫かれているように、私には思えるのだが、それがどのように「破産」するのか。見届けたい。いや、破産などしないのかもしれないが。


◆道具
 ちょっと気になった。道具はそれを使う人によって違う帰結を生む、喇叭も戦車もそうだろう。そのように言われる一方で、ガラス職人のおじさんは、ガラスがなりたいようにしていると言う。そして、彼方さんも、音が鳴りたいように響かせることで、喇叭を使いこなせるようになる。これは、人が道具を使うのではなく、道具によって人が使われるという事態ではないのだろうか。人と道具という主客の構図が崩壊し一体化しているのだとも言えそうだが、どうなのだろう。つまり、もしかすると、それを操る人によらずに、戦車が大暴れする可能性もあるのではないのかなあ、と。…ああ、そうなるのかな。

『ONE PIECE FILM STRONG WORLD』感想

遅ればせながら見てきたので感想。面白かった。
確かに、既にどこかで見たような『ONE PIECE』感があるのだが、あまりそれは気にならなかった。全編を通して、「見所」が連続して存在するからだろう。極論であるが、映画はモーションによってエモーションを描ければそれだけでいい、それだけで楽しいのだ。ルフィたちが瑞々しく暴れまわること、そして雄々しく佇むこと、粛々と歩くこと、それだけで映画は映画になる(むろん「それだけ」が決して容易ではないことには注意しなければならない。)。前半は怪獣映画である。奇怪な動物が次から次へと現れては、特異な運動をめまぐるしい勢いで披露する。それにワクワクしなければ、映画を見る意味がない気がする。静止画か文字でも眺めていれば良い(これも極論だが)。映画半ばあたりで、シキと対峙するルフィたちの格好良さもすばらしい。アングルと画角の巧妙さによるものだろうが、ルフィたちがただ並んで立っている、それがすさまじく格好いい。ゾクゾクするんだ。後半はヤクザ映画である。ヤクザ(海賊)の親分であるシキの和風の屋敷に、さながらマフィアのようにスーツに身をかためたルフィたちが乗り込んでいく。そのシークエンスも、やっぱり格好いい。すごく好きだ。屋敷の縁側を並んで歩くルフィたち、それにもう情動が掻き立てられてしょうがない。尾田栄一郎のことばを引き受けつつ言えば、まさに少年が楽しめそうな映画だ。衣装も特筆すべきものがある。この作品ではメインのキャラクターたちが、3,4度は衣装を変えるのだが、そのこと自体も楽しいことだし、それぞれの衣装もすばらしい。特に、ナミとロビンがエロい。とても良い。ドキドキするじゃない。
この作品では、ナミのことばが最後まで封じられている。けれども、この作品では、ことばを封じられる登場人物はナミだけではない。ジェスチャーによってコミュニケーションを図ろうとするDr.インディゴと、人語をあやつらないビリーもまた、ある意味ではそうだろう。奇妙なのは、それまで全くDr.インディゴのジェスチャーを解さなかったシキが、あるタイミングではそれを解してしまうことである。それは、ルフィがナミのことばを聴かずに暴れだしてしまう、その後のことなのだが、この相違が興味深い。いや、相違ではなく類似なのかもしれない。二人の海賊は、仲間のことばを聴かない。聴かなくとも、解してしまう。それでも差異は消え去らないか。一応コミュニケーションするシキと、そもそも聴かないルフィ。ルフィの王者感がかもされる気も。


気づいたが、映画館で見た映画はなんでも面白い気がする。映画館はすごい。