『涼宮ハルヒの消失』評

◆光・鏡・映画
 映画を見ることは、鏡を見ることに似ているように思います。鏡を見ることは、反射した光を見るということ、鏡面にもう一つの世界を見るということだと言えますが、映画を見ることもそれに似ているのではないでしょうか。私たちが映画を見るあいだ見つめ続けるスクリーン、それはまさしく映写機から発せられた光を反射する鏡ですし、そこに映し出されるのは、鏡を見る場合と同様に、もう一つの別の世界です。
 しかし、鏡・映画が映し出すオルタナティブとしての世界は行為の対象にはなりません。その世界を見つめる私たちは、不自由な存在であって、その世界を見つめることしかできないのです。別の言い方をすれば、鏡・映画の映し出す世界には、足を踏み入れることも、手を伸ばすことも出来ないということです。手に触れられるのは、せいぜい鏡面かスクリーンというこちら側の世界の物だけです。それはまた、見ることは距離を前提とする、とも言えます。私たちが見るのは私たちの眼球に接触しているものではなく、隔たっているものです。眼と対象とのあいだに、光という第三項が介在することで視覚は作動します。第三項の介在しない直接性は視覚ではありえませんが、鏡・映画とは光が常に伴うものであり、それは常に「見るもの」です。それ以外のもの、その中を歩き回るもの、触れるものではありえません。鏡・映画はもう一つの世界を生み出しますが、それはただ見ることしかできない、いびつな二重化なのです*1
 思い返してみれば、TVアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』は映画への言及を繰り返してきた作品です。TVシリーズそれ自体がハルヒたちの製作した「映画」によって開始されていることは忘れがたい事実ですし、その映画製作のエピソードもまた印象深いものでした。そのようなTVアニメが映画化されるということは何を意味するのでしょうか。この問いにはいくつもの回答がありえますが、映画という自己に言及する映画がまたひとつ誕生するという答えはその代表的なものではないでしょうか。唐突に結論を先取りしますが、『消失』は鏡という映画に似た光学装置を描写することで、つまり「鏡の映画」たることで、「映画の鏡」たらんとしているようにも見えるのです。すなわち、『消失』は鏡という見ることしかできないものを主題とすることによって、「見ること」の対立項としての「為すこと」を逆光で照らし出し、さらには映画という見ることしかできないものを自身に映し出そうとしているように思えるのです。前置きがやや長くなってしまいました。本小稿では、いま述べたような鏡の生み出す二元性、「見ること」と「為すこと」との対称的な差異を軸に『消失』というアニメ映画を語っていくことにします*2

◆観客とキョン、見るべき者
 この映画の冒頭では、まず『消失』の英訳らしき文字列が映し出されます。「消失」は「disappearance」と訳されていたかと思います。見えなくなること、そのことばのニュアンスを前にして逡巡しているうちに、画面は「まばたき」をするキョンの主観ショットへと移り変わってしまいます。この映画の始まりは概ねこのようなものです。「disappearance」という語の扱いをひとまず措けば、ここでは、映画の冒頭という特権的な位置においてキョンの視覚が強調されていることに注意がひかれます。単なる主観ショットではなく、目の形を模したマスキングと「まばたき」とで、そのショットがキョンの視界であるということ、さらに言えばキョンが見る主体であるということが強く描かれているように思えるのです。そしてそれがキョンと観客との同一化を肯定することにつながっていきます。観客の目にするショットがキョンの視界であるという、単純な同一化がそこに存しているからです。このときスクリーンは一種の鏡として光り始めます。キョンと観客が見る主体として同一化しているということは、見る主体は映画によって、観客とキョンとに分裂しているということでもあり、つまりスクリーンには観客の鏡像としてのキョンが映っているということになります。この鏡の機能によって、観客はキョンを自身(の一部)であるかのようにして、映画を見つめていくことになるのです。しかし、これは何も特異なことではありません。物語映画では、登場人物は観客の器もしくは乗り物である場合が多いからです。そして、観客は映画内世界を巡るための乗り物として主人公を扱います。そして観客は主人公が行く場所に行き、主人公が見るものを見るのです。これはもはや物語映画の約束事だと言っても過言ではないでしょう。ですが、『消失』は、その同一化をとりわけ強く推進しているように感じます。だからこそ私は「鏡」ということばを用いています*3
 見る主体として、観客の分身として見るという使命を帯びたキョンは、ただ見ることしかできない存在でもあります。とりわけ、もう一つの世界においてそれが如実に現れているように思います。映画内世界というもう一つの世界を見つめる観客が、その世界を見ることしかできないのと同様に、キョンは見ることしかできない、行為できないのです。もちろん、キョンが投げ出されてしまうもう一つの世界は、彼にとっては鏡の国でもなければ、スクリーン上にしか見出せない虚構ではありません。けれども、まるでそうであるかのように、キョンは行為することができなくなっているように見えるという、その視点は見過ごされてはならないでしょう。行為不可能なキョン、とりわけキョンは歩くことができません。歩くこと・前進すること・対象との距離を縮めること、それが不可能であるということは、対象に触れること・対象に働きかけることができないということ、接触不可能であるということでもありますから、歩けないということの意味は重大です。本来の世界において既に、キョンの脚の不自由さは私たちに露にされています。一例に過ぎませんが、例えば、ハルヒが軽やかなステップで見事に高跳びを成し遂げる一方で、キョンは無様にもサッカーボールを蹴りそこなうというような場面があります。また、もう一つの世界における初めての登校の場面においても、下駄箱の前でキョンが履こうとした上履きは乱れて落下し、キョンの歩行を阻みます。このように、細かく見ていけばキョンの脚にまつわる困難を無数に見て取ることが出来るかと思います。加えて、ことあるごとにキョンはこのもう一つの世界を前にして立ちすくむことになることにも注意しなければなりません。朝倉涼子が初めてキョンの前に姿を見せるとき、キョンは椅子から立ち上がったまま動けなくなりますし、また古泉の在籍する9組が無くなっていることを知った後にもしばし歩き出せなくなります。これらの場合は同時に、キョンの「めまい」が主観ショットとして、画面の異常な色調やヒッチコック的(?)な手法で描写されていることも見落としてはなりません。あたかも行為の不可能性が視覚の可能性に占領されるかのように見えはしないでしょうか。映画館の座席に腰掛けて動くことが許されず*4、スクリーンを見ることしか出来ない観客のようにキョンは動けず、ただ隔たったところから見ることしかできないのです。そのような不自由な在り様が、蓑虫や球根に模されて描写されているように思われます。

◆束縛と解放のレイアウト
 キョンの不自由さを画面のレイアウトから窺い知ることも出来ます。国木田とキョンとが弁当を食べる場面、開いたカバンの口からのぞく暗闇がなんとも空恐ろしい場面ですが、このあたりからキョンが画面の左端に、それも左向きに位置するショットが目立ち始めます。画面左端に左向きの配置ということは、キョンの向いている側には空間がないことになります。その配置は、キョンには進むべき空間がないような感覚を私たちに与えます。つまり、この追い詰められた配置によって、キョンは行動の可能性を剥奪されているように見えるのです。もう一人の長門キョンとが、初めて部室で邂逅する場面でもレイアウトが効果を発揮しているように思えます。その長門キョンの知る長門ではないことが判明する以前は、左向きのキョンは右端に位置し、行動の可能性を保持しているかのように見えるのですが、長門長門ではないことが明らかになるにつれてキョンが左端へと移動し、行動可能性が目に見えて減少していくのです。
 しかしもちろん、キョンは最後まで見るだけの存在というわけではありません。行為者へと転じる瞬間が訪れることになります。その瞬間もまたレイアウトによって表現されているように見えるのですが、これも淡い感動を禁じえない場面です。長門の部屋で朝倉をも交えた食事を終えての帰路、その瞬間は訪れます。画面左端で左向きに自転車を押しながら進むキョンキョンは左側へと前進しているものの、フレームもまたキョンと同じ速度で左へと進んでいるため、キョンの見かけ上の位置は変化せず、キョンは動けないままに見えます。しかし、あるとき、ふっとキョンとフレームの動きが止まり、画面左側に空間が生まれ、そこにぼんやりと光が差し込みます。その画面の推移はきわめて平凡でありながらも、それゆえにキョンの静かな心境の変化、そして希望・可能性を見事に描き出しているように思われます。ここに生まれた空間は行為可能性そのものです。そして、この画面上の変化のタイミングが、キョンハルヒへの思慕をことばにするそのときであるということも、一応は指摘しておいた方が良いのかもしれません。

◆行為、隔たりを超えて
 ここまで非常に足早にではありますが、非行為者であったキョンが行為可能性を手に入れるまでの流れを、目に見えるものに頼りつつ語ってきました。私が述べてきたことは「それまで傍観者だったキョンが『消失』においては、異世界を経験することで関係者としての覚悟を決める」というような、よく耳にする『消失』評からほとんど隔たってはいませんし、この後に述べることもそこから遠く離れることはありません。もし拙稿に固有の可能性があるとすれば、それは小説という読むものではなく、映画という見るものにできるだけ寄り添おうとしている点だけです。そして、この映画は「鏡の映画」であることで、戦略的に「読むものとしての原作」と決別し、「見るものとしての映画」と化しているように思えます。それが私の言う「映画の鏡」であるということの意味の一部です。
 さて、ここからさらに行為することについて語っていかなければなりません。行為、より具体的には歩くこと、走ること、そして触れることです。それらが鏡の世界を破壊していくことになります。既に述べましたように、キョンは前進すべき空間を手に入れました。だからこそ、キョンハルヒがいるという高校へと猛烈に走り出すことが出来ます。キョンの疾走と電車の走行、それらのムーブメントがなんとも印象的なあの場面は、動くことの重要性を私たちに刻み込みます。その後の、キョンが花屋の球根が描かれた看板の前で立ちすくんでしまう場面も併せればなおさらそうでしょう。動くことと動けないことの対比が非常に鮮明です。そして、キョンの運動がハルヒの運動を誘発し、もう一つの世界を解体していくことになります。このもう一つの世界は運動と接触とを許容しないものであるがゆえに、それらに対してきわめて脆いものであるかのようです。行為が鏡の世界を変容させていきます。

◆触れる、壊す、変える
 キョンは朝倉に対して「読むか書くか迷っている」と口にしたことがありました。そのことばが真意を含んでいるかはともかくとして、ただ見るのかそれとも行為するのか、その選択がこの物語映画の一つの鍵であるのは確かでしょう。その決意を固めたキョンがエンターキーを押すと世界はぐるりと反転します。画面の上下が反転し、昼夜が反転し、季節が反転します。それは鏡を連想させるには十分でしょう。夏の夜をキョンはまたも疾走することになります。ですが、この後は「触れること」へと行為の中心は移っていくように思われます。既に歩けないことについては少しばかり語りましたが、鏡の国に迷い込んだキョンはその世界に触れることもできませんでした。例えば、もう一つの世界でのキョンとみくるの最初の出会いにおいては、キョンはみくるの手を取り握り締めますが、それはみくるによる拒否というかたちでキョンの手から逃れ出てしまいます。キョンは自分が掴んだと思ったものを掴めてはいません。キョン長門との出会いも同様です。キョン長門の肩を乱暴に強く掴みますが、それも怯えと沈黙のうちに拒まれ、掴みそこなうことになります。キョンは前に脚を踏み出すことも、そして手で触れることもできずにいたのです。しかし、この後にはいくつか印象的な「接触」が描写されることになります。そのうちのひとつをまず挙げるとすれば、それは長門キョンを「噛むこと」でしょう。噛むことというキスにも似た接触はそれだけでも十分に印象的ですし、映像と音響もそれにふさわしい盛り上がりを見せます。ですが、なによりその接触がもう一つの世界を破壊するための、つまりはもう一人の長門を殺すための、行為であるということに注意しなければなりません。触れることで、オルタナティブとしての世界は壊されることになります。さらに言えば、もう一人の長門を殺すための銃が眼鏡という見るための装置が変形したものであること、そしてその銃弾は着衣の上からではなく肌に直接打ち込むことが推奨されること、この二点もただ通り過ぎてしまってはよくないのかもしれません。眼鏡を銃にすることは見ることを放棄すること、そして、肌への着弾という接触によって鏡の世界を打ち砕くことではないのでしょうか。
 もう少し、「触れること」について考えてみましょう。触れるということは傷つくということでもあります。表面が硬くザラザラとした岩石に触れるときのことを思い浮かべてみます。岩石に触れて、そのざらつきを感じるということは、柔らかな皮膚の表面が岩石の表面の形に応じて変化するということです。そこでもしも、強く激しく岩石に触れたならば、私たちの皮膚は裂け、ひょっとすると岩石の側も欠けてしまうかもしれません。このように、触れることは触れるものと触れられるもの、互いの変化、傷つくことを意味し得ます。だとすれば、触れることは「為すこと」の一部とはいえ、それだけにはおさまりきらないものかもしれません。それはむしろ「為すこと」の特殊としての「作ること」でもありえます。触れることは、見るだけではなく作ること、読むだけではなく書くこと、世界を自分を変えていくことではないでしょうか。触れるということ、歩くこととのような行為のその先にある目的。視覚が前提する距離を、脚によって踏破し、手をのばすこと。キョンは積極的に「作ること」へと己の身を傾けていくことになります。それは己の傷つきやすさを晒すことでもあります。実際のところ、キョンは大きな傷を負ってしまいます。これも印象的な接触として記憶されていることでしょう。キョン朝倉涼子によってナイフで刺されれてしまうのです。岩石に触れた手が傷つくように、世界に触れ世界を変えようとした代償であるかのように、キョンは傷ついてしまうのです。それでも、ゆえに、世界は変えられていきます。

◆雪と有希
 触れること。雪に触れること。雪は岩石などよりもはるかに儚く、舞い降りてくる雪に私たちが触れれば、それは瞬時に水へと移ろってしまいます。ある意味では、雪は触れられないものです。この映画の中で登場人物たちの雪像(のようなもの)が描写される場面があったかと思います。そこでは、雪像がもう一つの世界におけるそれぞれの登場人物たちを代理しているように見えます。既述してきたことからすれば、おそらくキョンはそれには触れられないでしょう。鏡という視覚の世界には触れることはできませんし、それに触れようとすることはそれをそれではないものにすること、つまり壊すことになります。
 触れること。長門に触れること。長門という視覚的存在。長門もまた見る存在です。彼女はハルヒの観察者であり、また眼鏡という見ることに特化した装置によって特徴づけられる登場人物、眼鏡キャラでもあります*5。見るものが見られるものに触れられないのであれば、長門もまた触れられない視覚的存在です。その長門に触れること。それは長門長門ではないものへと変えていくことです。雪像が触れられないものの代理だということを踏まえつつ、ひどく単純に言ってしまえば、「雪」を「有希」に変えていくことです。キョン長門とが病院の屋上で佇む場面、キョンの「ゆき」のイントネーションが「雪」ではなく「有希」なのは聞き違えようがありません。そして、それはもちろん大事なことなのですが、それだけではなく、長門の手を包むキョンの手には雪が解けた水滴が付いていることにも注目しなければなりません。キョンが触れているものは、もはや雪ではない別のものなのです。ただ見ることしかできない存在ではなく、互いに触れられるもの。ここでの接触は、あまり目立たないかもしれませんが、見落としていいものかというとそうではないように思います。このさりげない細部にこそ、この映画本編の終わりにふさわしい強さが存しています。

◆見ることしかできないという喜び
 あえて語らずに置いた見落としがたい接触について最後に語ることにしましょう。ようやく元の世界にもどってきたキョンハルヒの顔に触れるあの親密な場面について。この場面は最後の場面というわけではありませんが、この映画の様々な「触れること」が結実する、突出した場面だと思います。キョンの慈しむような手つきと、ハルヒのやわらかそうな髪や唇の描写を目にして、私たちはどのような思いを抱くでしょうか。何かしらの幸福感でしょうか。それもありうるでしょう。しかし私はここでは絶望と嫉妬の思いを取り上げたいと思います。私がキョンと私たち観客との同一性を強調してきたのはそのためです。途中からキョンは私たちとの同一性を保ちながら、差異を増大させてもいきます。それによって、私たち観客はただ見るだけの存在でしかありえないという絶望と、観客の分身でありながらさらなる分身を経ることでハルヒに触れることが可能となったキョンへの嫉妬が増大してもいきます。それはあるいはこの映画の残酷さであるとも言えるのかもしれません。見るべきもの、映画『消失』。スクリーンを見つめ続けた先にあるのは、見ることの超越的な悦楽かと思いきや、そうではなくむしろその超越的な視点のどうしようもない寂寥なのです。けれども、それがこの映画の突出点でもあるように思われるのです。映画の内容、つまり触れることの勝利から逆照射される映画の本性、見ることしかできないというその哀れ。それがこの温かな、しかし絶望・嫉妬せざるをえない場面に強く表されているように思うのです。映画の鏡としての映画。触れられないということは、やはり寂しいことではあります。それでも、見ることという不自由な能力を自由へと追い詰めていく映画。それを見ることはひとつの興奮であり、喜びでもあります。
 私が語ることができるのは、汲みつくしえない豊かさをたたえるこの映画のほんの一部に限られています。
 

*1:むろん現在の映画は、見るだけでなく聴くことも可能ですが、ある時期まではそうではなかったことは言うまでもありません。その事実を重視するならば、映画はすぐれて見られるものだと言えます。

*2:念のために述べておきますと、見ることも行為でありえます。しかしここでは、対象との距離を基準にして、見ることと為すこととのあいだに線引きをしています。

*3: 少し付け加えれば、キョンのモノローグもまた観客とキョンとの同一化を促進しますし、自分で自分の歴史を振り返り語るという語りの形態もまた、鏡の反射性を思わせもします。これは拙稿の文脈上は蛇足の部類ですが。

*4:現在の日本の一般的な映画館においては、観客は「映画鑑賞のマナー」に従わねばなりません。

*5:もう一つの世界で長門が眼鏡をかけていること、そして、『ハルヒ』シリーズにおいて長門が途中で眼鏡を外すことには大きな意味を認められます。