マクロスF 第25話「アナタノオト」

面白がっている人が大勢いるらしいという事実が悔しい。どうにも退屈することしか出来なかった俺。
出来事が「出来事」という一次的なレベルで留まってしまって、なかなか拡がらなかったような印象。序盤はそれでもいい。というのは序盤なので後の広がりを期待できるからだ。それゆえに序盤はそこそこ楽しく見ることができたのだろう。2クール目に入ると、悪い面が目立ってきてしまう。人々が為すことが、ひどく場当たり的で、シンプルで、つながらない。
結構驚くのは25話のおそらくクライマックス、アルトの「一人だからこそ――人を愛せるんだ!」というセリフ。意識の統合に抗する理由として、支配されることへの嫌悪を挙げればよいものを、ここで愛を語ってしまうのか。すると、当然、そんなに愛っていいものなのか?と考えざるを得ないのだが、果たしてこの作品において愛の素晴らしさなんてものが描かれていたか。いない。だからこそ『愛・おぼえていますか』をランカに歌わせなくてはいけなかった。『F』では愛は示されないけれど、「愛・おぼえていますか?おぼえていますよね?」と。おぼえてねーよ!しらねーよ!愛って何だよ!?『F』の悪いところが結晶化したようなセリフだ。しかし、いかにもクライマックスらしいセリフでもあるのは確かで、そのような舞台に立たされたとき「役者」アルトが自然に口にしてしまいそうでもある。結局、アルトは最後まで「役者」として「仮面」を被り続けたのだろう。アルトの本気が全然見えないもの。
なんだか落ち着かないぬるぬるしたお話になってしまったのは「三角関係」というものの処理の仕方の問題なのかもしれない。『F』の三角関係は、恋愛上の三角関係だけではなく、「支えあう三点」という意味合いも強い。その両立、バランスの取り方の難しさ。恋愛上の三角関係を破壊する=シェリルorランカの選択をすることは、支持する三角関係の崩壊とほぼ同義であり、支えあって困難を突破することを描くなら恋愛上の三角関係は破壊できない。ジレンマ…でもないな。上手いやり方もありそうだわ。恋愛上の三角関係が壊れなかったことで、不完全燃焼感もあるけれど、とりあえず支えあうことは完遂できたのだから、そこはまあ。
ヴァジュラは人類が個体で構成されていることを理解できず、その中にいるランカを救い出そうとしていた、というのも無茶だ。他者概念を有していないと思われていたヴァジュラであったが、最終的には、何億年かに一度別の個体と交配するために、「アイモ」を歌うことが明らかにされたのだから。つまり、「アイモ」がコミュニケーション手段である以上、別のヴァジュラ群とは意識を共有していないのであって、そこに自・他の概念は発生しているはずだ。その概念を人類の個体の別に当てはめられないということはないのではないだろうか。いや、ヴァジュラの精神構造があまりに人類とかけはなれているというなら、このような分析は意味を成さないが、相当人間的なところあるよなアイツら。
しかし、悪いところばかり、というわけでもなく。25話の、歌と歌が迸る、多様で複合的なイメージの奔流にはゾクゾクくるものがあった。2ndOPでも、高速で背景が過去のシーンを映し出し流転していくカットがあり、それとこれは同質なものなのだろうな。しかし、それがシリーズ全体の完成度を底上げできているのかは疑問。
なんだか下らないケチをつけるだけで終始しまったが、後半になって俺の気持ちがダレてしまい、しっかりと見られなかったことが、尚更面白くないように感じさせているのかもしれないわけで、もう一度しっかり見てみたら面白かったりするのかもしれないわけで、面白いんだよと誰かが教えてくれるといいな。
あー、ミシェルが死んだのは意味があった。アルトは誰かが死ぬくらいのことがないと、仮面を外せない。だから、シェリルは死ぬべきだったと言えるけれど、なんでもかんでも『コードギアス』的な決断主義みたいなのが横行しても面白くないし、まあ。「まあ」って言いすぎだな俺。