『NARUTO疾風伝』第138話「終焉」感想:未来を再現すること、過去が過去であること。

一話のあいだに、3度も雨の降るアニメはなかなかない。
三度、反復される雨は過去の呼び水だったのかもしれない。雨が死を呼び戻し、死を準備する。
サスケはイタチの死を「再現」すると言う。けれども、イタチの死はいまだかつて来たらぬものである。再現できるものは、既に過ぎ去ってしまったものだけである。サスケの言う「再現」は、未来の再現というパラドックスを抱え込んでいる。そして、その逆理を突き破らんとするかのように、画面には、雨をはじめとして、過去が氾濫するのである。
過去の逆流。それは、サスケとイタチの可逆性へとつながる。サスケが「再現」しようとする死。もし、言葉の意味を厳密にとらえようとするならば、再現しうる死を過去に求めねばならない。突き当たるのは、サスケの両親の死であり、一族の死である。肉親であるイタチを殺すということは、イタチの肉親殺害を再現することに結び付く。サスケはイタチを自身により再現することになる。幼いサスケが覗き込んだ水面には自身の顔が映り込んでいたが、それはイタチへと移ろう像であった。二人の関係は可逆的である。冒頭のふらつきながら歩くサスケと、サスケに向かってふらつきながら歩くイタチもまた重なりあう。そも、写輪眼が交換可能であるのも可逆性のゆえだろう。殺す殺される関係の逆転も数え入れても良いだろうか。そのような可逆性、そのスイッチが、あるいは雨なのかもしれない。レイアウトでは、二人のポジションは一貫して左右に振り分けられていて、可逆的でないのではあるが。
過去ということで言えば、この国の最も古い過去すらも、ここで再現されてしまっていることをいちおう指摘しておこう。その太古からの逆流がある一方で、過去とは、やはり決して取り戻せないものでもある。イタチが死に際に呟いた言葉はおそらく「許せサスケ」という、かつて兄弟間で交わされた言葉だと考えられるが、その言葉には音がない。決して届かない。現在に回収不可能な言葉なのである。
いつも俺の言葉は、言うべきことの輪郭線に届かなかったりはみ出したりしてばかりなのだが、面白い回だったと言っておけば、まあ。