ポニョをもう一回見に行った。その後、徹カラ。
映画館に行く前に「アニオタが非オタの彼女にアニメ世界を軽く紹介するための10本 」とそれに関するエントリをちらほら見かけた。徹カラから帰ってきたら、ロサとかが「声オタが非オタの彼女に声優世界を軽く紹介するための10本」に改変してくれてるんじゃないかと思っていたが、そんなことはなかった。まあそうなるよな。

崖の上のポニョ 2回目

2回見たら、いろんなことがすっきり解ってしまった。新しく発生した疑問点もいくつかあるが、些細なものだ。その結果、作品に対する印象が貧相なものになってしまったように感じる。これは二度見るべきではない作品なのかもしれない。やはり、初見のときのような生き生きとした映像に対するワクワク感は薄れ、冷静な目で見られたあまり情緒的ではない印象に上書きされてしまう。
おそらく、フジモトが相当なマジックキャラなんだよなあ。ああ、そして、フジモトはヘンテコリンだというだけでなく、ひょっとするとかなり感情移入しやすいキャラなのかもしれない。彼がマジックでありキーでもあると考えるのは、そう間違いではないか。

ついでなので、「原作通りにアニメ化する」ということについて考えてみようかと思ったが、徹カラ明けの頭じゃ、なおさら難しい。アニメ研の会報で誰かが「アニメ化は原作通りが絶対」というようなことを書いており、それがずっと引っかかっていた。「原作通り」ってのはどういうことなんだろう。
昨今のアニメにおける原作といえば「漫画」「小説」「ゲーム」に大別できると思うのだが、それらをアニメ化するときに問題になるのは、根本的には、メディアを移し変えることによる存在論的な変化だと言ってしまえるだろう。どういうことか。漫画も小説もゲームも、それが時間化されるのは受け手においてであり、同じ漫画であってもそれ固有の時間はない。10分で読む人もいれば一時間かける人もいるだろう。しかし、アニメにはどうしても固有の時間がある。どのような受け手であっても、30分のアニメを見るには30分の時間が必要だ。そういう意味において、「原作」と「アニメ」との間には超えられない壁がある。その差異をここでは存在論的差異と呼んでみたが、或いはメディア論的差異と呼ぶのがより適切かもしれない。この「差異」が「原作」と「アニメ」とのあらゆる性格の違いの根本原因であり、またこれは絶対的なものである。それを認識すれば「原作通り」という言葉の空虚さは自明だ。
しかしながら、「原作通り」を求める人が存在するだけでなく、「原作通りにアニメ化された」と評されるアニメ作品が存在するのだ。一体、それはどういうことなんだろう。考えてみた。結局、それは「誰かにとっての原作通り」という意味ではないだろうか。
・・・ここまで書けば、私見の概要は吐き出せただろう。もう寝る。「私にとっての原作通り」ということだけを立地点にして(アニメ研の人が)原作付きアニメを見るのってどうなん?って思ったってだけのこと。眠い。