茅原実里が俺に影響しない世界だ

Contact

Contact

テスト勉強中、アルバムを聴いていて思ったこと。茅原実里の歌にはソウルがない。音楽などに詳しいわけではないので、ただ印象をテキトーに書く事しかできないのだが。
ソウルがないなどと言ったが、俺に訴えかけてこないというような意味。マクロス7風に言えば「チバソングの数値が低い」ということだろうか。勉強中、静か過ぎては落ち着かないのでアルバムをかけていたのだが、その場面で「便利だ」と思った。それで良いのだろうか。その場面で俺が便利だと思うということは、うるさすぎず静か過ぎないということで、それは俺の耳に聞こえているようで聞こえていない、聞き流されているということだろう。それで良いのか。
Lantisはそれでいいと思っているのだろうなあ。本当に音楽に関して無知なので、なんと言ったらいいかわからないが、長門的なイメージを基盤とした楽曲制作に批判的なのだよ、我。トランスと言ったらいいのか?電子的な音楽の中にせっかくのボーカルを埋没させてしまって、耳障りがいいだけで熱い情動を喚起しない歌なんか聴きたくないんだよ。エモーション!初音ミクにはできないが、茅原実里にはできるはず。確かに声色の面で、透明感が電子音声的に聞こえてしまう部分はあるが。
歌は上手いんだから、方向転換してもらいたいところだ。まあ、アルバム収録曲の全てが長門的なわけではないし、こういう感想を抱くのは、影山ヒロノブやら福山芳樹ばかり聴いている俺の感受性にも問題があるのかもしれない。しかしバサラが10万チバソングを超えているのは確からしいしなあ。あー、らきすたのキャラソンはちょっといいなあ、と思った事を告白しておく。


結局、俺は歌の中で歌詞とそれに伴う声の情感に大きな価値を置いている。だから「moog」などを見ても、シンセサイザーに何の興味も抱けないのだなあ、多分。電子音は確かに奇妙な音や綺麗な音を表現できるのだろうが、それが人間の感情を抉れるのか、俺には疑問なのだ。関係あるような無いような何か。サイキックラバーはすごい高音でかっこいいとは思うが、影山などほど迫ってこないのは、情感という点でやや欠けているからなのかなあ、とか。
[rakuten:book:11849024:detail]