いや、今回は演出のことはどうでもよかったりする。この話の冒頭で俺はこの回の演出がむらた雅彦であることに気づけたが、それは絵の色合いのためだった。室内での翳りの中にあるキャラクターの色合いが、むらた演出回では独特である。それはつまり、むらた雅彦が色に関してなんらかの「演出」を行っているということになるのではないだろうか。俺は、色(つまり仕上げ?)に関しては色彩設定や色指定、仕上げ検査という役職でクレジットされる人に任されていると思っていたが、演出はそこのレベルまで演出できるということなのではないだろうか。おいおいわけが分からないぜ。
ここで思うのは「カオスな総体としてのアニメ」だ(言葉遣いは適当)。普通のTVアニメは分業的に作られているが、しかし俺達一般的な視聴者にはあるアニメを分業段階ごとに分節することは難しい。ほとんど不可能だと俺は思う。一応、分業の証としてOP・EDでテロップが流れるわけだが、実際にキャラクターが発した台詞のどこまでを脚本が書いているのか、映像化されたもののうちどこまでがコンテに指示されているのか、原画に作監修正は入っているのか等々のことは多くの場合、明瞭判明には知られないのではないだろうか。とすれば、アニメというものは分業が渾然一体となったカオスな一者として捉え、それの良さも悪さも(人に還元したいのなら)ただ統括者としての「監督」「演出家」などに回収させる形で語るしかないのではないのか、という考えに至る。普通。(いや、目の肥えたアニメファンであれば、演出家や原画家の個性を見抜き、ある程度の分節化は可能であろう。しかし、美術や仕上げスタッフに至るまで識別するのは無理なのではないか。アニメは個を消し去ることで個となる、基本的な性格を備えている。)しかし、個別の人間の仕事が確かにあるにも関わらず、それらを捨象することでしかアニメを語れないとすればそれは貧しいことなようでもある。だからこそ、個に焦点を当てたアニメ語りには、多かれ少なかれ魅力があるのではないか。また個性を消し去らないよう努めるアニメの面白さの一端もそこにあるように思う。
だが、俺達には分業をそれとしてアニメカオスの中から分節しきることはできないのだから、とりあえずは作家を無視するしかないのではないか。広義での作家主義から離れ(ってもともとそんなところに依ってないか)、作品へ、そして自己へ眼差しを転換したらいいのではないだろうか。作品に着目した場合、そこには明らかに分節できるものがある。例えば大まかに、音と映像や台詞とBGMなど。そういう意味での「個」の分析からアプローチしていったほうが、俺達には意味があるのではないだろうか。また、印象論的なアニメ語りは、ほとんど自分語りみたいなものに終始してしまいがちだが、それはそれでいいように思う。自分抜きで語られるアニメというのは、つまり視聴者なきアニメではないか?その意味には疑問が浮かぶ。この点はもっと考えるベキだなあ。


というようなことを今日ふと思った。考えた事の全てを秩序立てて書けたとも、書いた俺の考えが正しいとも思えないが、この辺への俺なりの意見ということで。