コードギアス反逆のルルーシュR2 第15話「C の 世界」

妄想を書き散らした。隠す。裸形のCC=持たざる者。
ルルーシュの非常に生に対して肯定的な態度が、俺にとって好ましい回だった。生きていることは素晴らしいことなんだ、と盲目的に説くことそのことが、俺の共感を惹く。ある時期を境にルルーシュの考え方は変わったように見えて変わっていなくて、でもやっぱり変わっているが、あまり一貫性がないようで捉えきれない。ニーチェ的でもありエピクロス的でもあり、またストア的でもある、その生と死の技法、欲求と快楽に対する態度が捉えづらい。以前の彼は「俺はまだ死ねない」とは言うが「生きたい」とは言わなさそうだが、今の彼は「生きたい」とも「俺はまだ死ねない」とも言いそうで、俺には計り知れないものがある。しかし、ルルーシュが口にする生への希望は、矛盾にまみれている。ルルーシュの考える生き生きとした生には生成と消滅がつきもののはずだが、それをルルーシュは無視してCCを説き伏せようとしている。しかし、それは不動の生を営んできた、死を望むCCには通じず、全く会話が噛みあわない。

「お前は死ぬために俺と契約したというのか」
「死ぬために生きてきたと」
「この世の摂理はそこにある。限りあるものそれを命と呼ぶ」
「違う!生きているから命のはず!」
「同じことだ。死があるから人は生を自覚できる」
「言葉遊びだろそんなものは!」
「しかし、人は死ぬ」
「だとしても、この世に生まれた理由が!意味が!」
「知っているくせに、そんなものはただの幻想だと」
「死ぬだけの人生なんて悲しすぎる」
「死なない積み重ねを人生とは言わない。それはただの経験だ」

ディスコミュニケーション
「貰い物は全て手放しました」と言う裸形のCCは、分かりやすく何も持たざる者の姿だ。彼女が持っていたものは全て、彼女のものではなかった。一方でルルーシュに対しては「何を得たか」という問いかけがなされると同時に何を失ったかも告げられる。それはやはりルルーシュが何かを持つ者だからだ。その対比は抑えておかないといけないところだろう。最初から何か持っているものの生に対する態度と何も持たざる者のそれは、どう違ってくるのか。
おそらくルルーシュは全てを失ってもなお自分の「生」だけは残ると信じている。裸形のCCは生は自らの持ち物ではないと感じているだろう。しかし、CCもまた「生」を持っている。それがルルーシュにとっては財産だが、CCにとっては重荷でしかない、という違いがある。重荷を背負っているからこそ、CCは死にたがる。それは、存在の重み、みたいなものを説いたレヴィナスに近いものかもしれない。レヴィナスにおいても存在者が存在することは契約のようなものだといわれるが、CCが存在しつづけているのも契約によってであり、少し通じ合うものを感じる。契約の履行こそが耐え難い重みとなって現われてくるのである。一方でルルーシュの自我は自己中心化する自我であるように見える。世界を世界化する自我、時間化しつつ時間化される自我。それは無名の存在ではなく、ルルーシュである。

本当に適当に書いてるなあ。