「ラグナレクの接続」レイプ

ぐだぐだだが、まあいいか。
普段はあんまり細かいことは気にならないんだけど、「コードギアスR2」第21話での「ラグナレクの接続」が完遂された場合、人間がどうなるのか、気になる。書かないと考えが整理できないので書く。ごく簡単に。重大な思い違いをしている気がしてしょうがない。いや、気になるのは、完遂後に人に自我みたいなものが残るのかどうか、ということ。

「わかっていますよ。神を殺し、世界の嘘を壊そう」シャルル (第14話)
「はぁ〜。始まる。アーカーシャの剣が神を殺すの」マリアンヌ(第21話)

「嘘などつく必要はない。何故なら、お前はわしでわしはお前なのだ。そう、人はこの世界に一人しかいない。過去も未来も人類の歴史上、たった一人」シャルル(第15話)

だ。
シャルルたちは、神を殺そうとしている。そして、その神とは、「人そのもの」*1と言って良いようである。
そしてまた

「人とは集合の意識がつけた仮面。心と記憶の海に開いた窓。人の心は…」C.C.(第21話)

とも言われる。「神」=「集合の意識」=「たった一人」の「人」、は認めてよいよね。
ここで「ペルソナ」について確認しておく。ペルソナというラテン語は、学術的には、ギリシャ語の「プロソーポン」の翻訳後として使われ始めたものである。「プロソーポン」とはギリシャ劇で使用される「仮面」のことで、そこから「役割」という語義も派生したと考えられるが、同じく「仮面」という意味を持つ「ペルソナ」がその翻訳語として当てられたようである。

「そうだな。俺はずっと嘘をついていた。名前や経歴だけじゃない。本心すら全て隠して。しかし、当たり前のことだろう?他人に話を合わせる、場に溶け込む。それらなくして国や民族、コミュニティーというものは存在しない。誰もが嘘を使い分ける。家族の前、友人の前、社会を前にして。皆違う顔をしている。しかし、それは罪だろうか?素顔とは何だ?お前だって皇帝という仮面をかぶっている。もはや我々はペルソナなしでは歩めないのだ」ルルーシュ(第21話)

「素顔とは何だ?」と問うルルーシュは、「仮面」を被る基体を認めていないようであるが、通常の感覚では、仮面を被っていない「本当の自分」というものを考える*2。というか、シャルルはもちろんのこと、ルルーシュも「嘘」を認める以上、「真の自分」を実体視しているはずだ*3。この「真の自分」はおそらくボエティウスの定義する「人格」に同じであり、その定義とは「理性的な本性を備えた個体的実体」である。人格の二義性:「仮面」も「基体」も「人格」なのである*4
さて、「真の人格」が破壊されたとき「人格」はどうなってしまうだろうか。複数の仮面を統一する基体が失われたとき、「自我」や「自意識」と呼ばれるものは崩壊してしまうのではないだろうか。仮面だけが残ったとしても、被る者の無い仮面は仮面ですらなく、何か記号のようなものにすぎないのではないだろうか。
この、人格における基体―仮面の関係と、「神」における神―人の関係が類比的なものであると仮定したとき、シャルルの構想が夢想でしかないという結論が、俺には導き出される。つまり、「神」を殺したならば、人は人でなくなる。もういちど引用する。

「人とは集合の意識がつけた仮面。心と記憶の海に開いた窓。人の心は…」C.C.(第21話)

人が神の被った仮面であるならば、神が死んだとき、人はどうなるのか。人の仮面が剥ぎ取られる、というシャルルの結論が一体どこから出てくるというのか。「神」=「集合の意識」=「たった一人」の「人」なのだ。人の本質が破壊されれば、当然、人は人でなくなるはずではないのか。仮に仮面だけが剥ぎ取られるとしても、そこに残るのは、ただ無垢なだけの意識でしかないのではないか。「仮面」は「神」がつけるにせよ人がつけるにせよ、行為や意識が中心化するその点なのではないだろうか。結局のところ、集合の意識において、自我を保った人格と出会うことはできないのではないか。実際に、作中では死者が現われることはなかった。
だめだ、疲れてきた。

*1:おそらくこれが「神」にルルーシュのギアスが有効だった根拠なのだが、「神」が「人のイデア」だとすれば問題が少々ややこしくなる。人間のイデアは人間に似ているのか、という問いが生まれてくるのだ。しかし、別にイデアだとはどこでも言われていないからただの俺の迷いだ!

*2:仮面としての人格と本当の自分との齟齬に苦しむ人も多いようだ。「しゅごキャラ!」とか。

*3:だが待てよ、ここで抱いている「本心」もまたなんらかの役割に基づいていないか。

*4:ちょっと用語法がめちゃくちゃだが無視