クラナドを見る会

マノ邸にて。全然見たくなかったのだけれど、いろいろと仕方なかった。

TVシリーズ

多分、様々な工夫がなされてるんだろうなー。
気になったのは、同ポジション(?)の使い方。シーンの始まりにそれが「どこで」のシーンなのかを明示するために俯瞰気味の説明的なカットがまず入る、というのはアニメではよくあると思うのだが、そこで『クラナド』は何度も同じカットを繰り返す、同ポジションを意識的に使っているように思われる。ある場所でのシーンならそれを示すため、シーン頭には同ポジションのカットを繰り返し用いる。それは省力の意味も大きいのだろうけど、「場」に対する親近感を醸成する効果もある。よく見知った場所で展開されるお話のほうが興味を抱きやすい。狭い範囲で物語が進むからこそ可能な手法であるが、他のアニメでもやっていることだろうかな。
「場」に密着させる、親しませる、そのためにカメラの位置を下げるアニメは多い。俯瞰の高さが非日常的だからだろう。最近では『お稲荷さま。』はまさに日常とローアングルを結びつけたアニメだったし、京アニ作品で言えば『AIR』もそういうことをしていると思う。『AIR』と比べると『クラナド』は圧倒的にローアングルが少ない。古河家は床に座って食事を取る家庭だが、カメラは人物の顔辺りの高さを保ち、ロー気味にはならない(なってないと思う…)。けれど、この顔辺りの高さというのは、多分、感情的には一番安定していて(サイズにもよるか?)、この高さを維持することで作品全体を流れる感情もゆったりと安定するのではないか。どちらも「日常的な視点」としてくくることのできるカメラポジションつーことなのかな。
アングルだけでもガシガシ感情歪めてるなーと思ったのは第15話「困った問題」*1。坂本一也さんは山本寛さんの影響を受けてるのかなとなんとなく思ったが、根拠はない。しかし、最近、『AIR』『フルメタ2』の再放送を見ていて、俺が山本寛に興味があるのは事実。どうでもいい。
そんなこんなで、全体としては、閉鎖的で親密な場において、どっしりと感情を座らせたシリーズだったんだな、という印象。全体的に平凡さを見せ付けることで、劇的な部分が劇的に見えるようになったりならなかったり・・・。どっちなんだよ。
TVで見ていたときには気づかなかったんだが、「渡す」とか「伝える」ってことが一つの主題になってるのね。だから、ことみちゃんの両親からのプレゼントが人づてに渡ってきたということが、あれだけねちっこく演出される。TVで見たときは、何だか間抜けな演出だと思ってしまったが。風子のヒトデも渡され、渚の両親の思いも渚に伝えられ、ね。
そして、やっぱり、渚が圧倒的に可愛い。

もうひとつの世界 智代編

「俺と智代が付き合い始めて」云々のモノローグから始まるのは、ちょっと先制攻撃にもほどがある。お前、さっきまで渚といちゃいちゃしてたじゃねえか!

劇場版

すごく面白い。最初の20分と最後の30分しか見てないけど。
渚と朋也が同じ夢を見ていたというのは、ロマンチックなだけでなく、お互いにお互いしかいないならもうそれは問答無用でくっつくしかないわな、という90分という短い尺の中で二人が強烈に惹かれあうことの説得力になる。同じ夢を見ていたというそのこと自体の説得力は、ロマンの中に引き込まれてうやむやに…。こういう強引さがたまらなく美しいと思える。
それは、汐が転びそうになるのを朋也が思わず抱きとめてしまうシーンにも見られる美しさだ。汐が危なっかしい足取りで走ってくることの、落ち着かなさは有無を言わさぬものがあり、これは大いに観客の不安を煽る。そのアナロゴンとして、「危ないよ!」と叫び駆け寄る朋也がある。強烈な力に後押しされるように、発作的に朋也は前に駆け出し、そして汐が運命的に転ぶ。全ては強力に調和している。そして汐を抱きしめる朋也。その瞬間、あらゆる距離が消失する。朋也と汐の距離はもちろんのこと、渚までもが現前するのである。ただ「汐が転びそう」というこれだけの予感から、一瞬にして、渚までがつながる、なんという力業。俺の言いたいことが伝わっている気がしないぜ。
全体の構成も良い。光に満ちた「朋也―渚邂逅後」の世界に、徹底的に暗い「朋也―渚喪失後」の世界を挟むことで、その前後の落差が際立つことになる、幸せなときはより幸せに不幸なときはより不幸に。また決定的な出来事は見せられずとも、その後の世界を見せられることで、圧倒的な不幸の予感が常にのしかかることになり、非常に息苦しい。それだけに最後のカタルシスカタルシスたりうるものになる。上手く書けない。
電車の使い方が本当にポジティブで微笑ましい。このアニメでは線路が未来に続いている。朋也が汐に出会うのが「2番ホーム」であることからそれは分かる。ホームはformであるから、それが渚との家庭を「1番ホーム」とした場合の汐と歩む2番目の家庭だ、とまでは言わないが、しかし第二の人生の始まりであることに変わりはないし、やはり「ホーム」と「家庭」を駄洒落的にかけているようには思われる。その2番目の人生に朋也を導いたのは、父親や友人達なんだけれど、そこに移動するのには電車を用いる。このアニメでは繰り返し電車が映し出されるが、キャラクターが乗るのはこの一回だけだ。芳野祐介らは車で朋也を迎えに来るにも関わらず、いつの間にか電車に乗っている。特別な意味を認めないほうがおかしかろう。電車はどこかに向かう。このアニメでは、未来に向かっている。


書くことに飽きてきた。

*1:他にもあったのかもしれないが気づいていない。気づいた範囲内、狭い視野でしかTVシリーズ全体というものを鳥瞰的に見られない逆説。