信号機から考えるアニメの水平性と垂直性

つまらないこと。水平性と垂直性という言葉を使ってみたかっただけ。

上の写真はは東大浅野キャンパス(?)門前の交差点に設置されている信号機を撮影したものだ。何故だか良く分からないが、この交差点には二つの信号機が設置されている。何か理由があるのだとは思うが、まあ、それはどうでもいい。縦型と横型の信号機を両方一度に撮影できる変な場所を発見したから、撮影してみただけで。
ご覧のとおり、信号機の灯火は、縦型は上から横型は右から、それぞれ赤・黄・青の順で並んでいる。この配列順は、赤を目立たせるためのものらしい。左側通行の日本では車の運転席が右側についているため、横型の信号機ならば右側に赤のランプが来たほうが運転手から見やすく*1、また縦型の信号機の場合、高い位置に赤があったほうが見やすい、とそのような理由でこのような配列順になっているそうだ。
横型信号機の灯火の配列順は、右側通行の場合では左側通行の場合とは逆になる。しかし、縦型信号機に関しては変化する理由が思いつかない。おそらく変化しないだろう。ここから言えるのは、「上下」と「左右」の持つ意味合いが同じではない、左右の意味が相対的であるのに対して上下の意味はいわば絶対的である、というまあ当たり前のことだ。右と左のどちらがよく見えるか(どちらにより注意するか)は流動的だが、上と下ではまず大抵は上なのである。
さて、いつだったかこのブログでレイアウトにおける左右の意味について考えてみたことがあったが、再考してみたい。現在の俺の結論から言ってしまえば、信号機と同じく(信号機の場合と違って画面には常に正対するが)、アニメの左右にも絶対的な意味合いはないのではないかと思っている。ここで言っているのは、右にいるキャラクターのほうが左にいるキャラクターより強いとか、右から左に話が進んだほうがスムーズに感じるとか、そういう意味をレイアウトだけでは持たせられないということだ。全くそういう実感がないという、それだけを根拠にして言っている。信号機について書いたが、実は意味はない。実際のところ、左より右のほうが強いとか上位だとかいう実感を持っている人はいるだろうか?習慣的には「右に出るものがいない」などと言ったりするが、その「実感」があるだろうか?俺にはない。ただ、常にあるキャラクターを左右の決まった側に配置する、物語が進行する向きをそろえることには、意味があると思う。だが、それは左右どちらでもいい。
左右の意味合いはそんなに無いだろうと言った。しかし現実として左右について気を配らなければならなくなっている。アスペクトの変化だ。テレビ画面のアスペクトが4:3から16:9に変化しつつある。横長になっているのだ。レイアウトとしては、この左右のスペースを上手く使っていかなければならないだろう。となれば、左右になんらか意味を持たせることになっていくのではないだろうか。実感がないなどと言っておらずに、俺達はもっと左右に敏感にならないといけないのかもしれない。
横長であることは、それだけで面白いことであるように思える。正方形に近い4:3の画面より、横長の16:9の画面のほうが、それだけでエッヂが立っているように見える。画面比だけでも不均衡なわけで、ひいてはバランスの崩壊という動きがそれに見えているのかもしれない。横が長くなったということは、左右の価値は減じたのだろうか、それとも増したのだろうか、実はよく分からない。縦についても同様だ。ただ不平等であることは事実であり、なんらかの意味で格差は増しているのである。さて、画面上に広がった格差と、もとより人にとって普遍的な意味をもつ「上下」と、そうではない「左右」はどう関係していくことになるのか。
人間の行動は基本的に水平方向に向いている。また人間の視野も垂直方向よりは水平方向のほうに広がっている。そういう意味で、もとから垂直と水平には格差がある。それに画面比が追いついたと言うことはできそうだ。それがどう作用するのか、既にしているのだろうが、それを観取していきたい。それだけ。
つまんねえ。もっとワクワクするようなことが書きたい。近頃、アニメを見ることよりも、その後にそのアニメについて書くことのほうが楽しい。何でだろう。好き放題言えてしまうからかな。しかし、だんだんとアニメについて語りにくくなっている。俺が望んだ状況とはいえ、難しいものだ。だからといって語らないのでは、この状況に陥った意味がない。そのうちアニメについて書こう。最近、精神論ばかりだからなあ。

*1:左側に植えられる街路樹に赤信号が隠れてしまうと困るという理由もあるらしい