俺は一体何を言おうとしているのか?ただ喧嘩を売りたいだけ。

ここ最近はktzwさんに会うたびに失礼なことばかり言っているので、失礼なことしか言えなくなりつつある。いや、ktzwさんの仰っていることから、今後の我々の方針を引き出せるのではないかと期待して。そして俺が無茶苦茶書けばktzwさんが更に厳しく激しく応えてくれるではないか、とも。それは甘えです!本当にktzwさんは、俺が今からここに書く反論めいたことを全て了解した上で、↓エントリを書いておられるのではないかとも思える。だから、すごく恥ずかしい。だが、自分の意見に文字という形式を与えるために俺は書く。
我々は再び、何を語ろうとしているのか? 序 - 勘弁してください。

ktzwさんは何を語っているのか

ktzwさんが仰っていることを大雑把にまとめると「人の作品に対する想い(意味づけ)はその人の経験全体の文脈の中で定まってくるものであり、それを無視して『作品そのもの』という虚構の概念に寄り添い、そこから何らか意味を取り出したとしても、それは知らず知らずのうちに主観(経験)に閉ざされたものであり普遍的でもなんでもない」ということだろうと理解した。ここで間違っていたらアレなんだが、大間違いということはないと信じて。
ktzwさんの仰ることは至極真っ当だ。俺も同意せざるを得ない。しかし、俺とktzwさんが向かう先は異なる。それは「普遍性」や「経験」「固有性」に対する態度の違いに由来している気がする。
以下、ざっくざくと俺の考えを書いていく。論の順序はデタラメかもしれない。上手く書けないごめんなさい。

物理法則の普遍性

近代物理学が解明した物理法則は、一般には普遍的なものとして認められている。しかし、その法則は有限回の実験・観測から導き出されたものであり、つまり蓋然的な知である。それが本当に普遍的かは決しえず、ただ法則が現実に妥当する限りにおいて運用されている。近代物理学では説明できないような事態が観測されれば、それを改める必要があり、実際にそのような過程を経てアインシュタインなど理論は生まれてきたのではないか。一見すると普遍的真理であるかのように打ち立てられている近代物理学の物理法則でさえ、あくまで条件つきの真理である。その条件つきの真理がなぜ普遍的だと考えられるようになったかといえば、実験をすればその法則がとりあえずは妥当することが、誰にでも確認できるからである。

普遍性はアプリオリには存在しない

物理法則の普遍性について考えてみてわかったことは、「普遍的真理」が宇宙にアプリオリに存在すると考え、それを解明しようとしている物理学でも、その普遍性は有限回の実験とそれがとりあえず成立すること、その2点に担保されているにすぎないということだ*1
もっと言ってしまおう。普遍性などというものは、近代物理学においてでさえ、人々の「合意」によって成り立っているのである。「人々の合意」、これがキモである。
アニメ法則(?)の普遍性もまたアプリオリには存在しない。アニメ法則と物理法則を類比的に見て考えるならば、アニメ法則の普遍性もまた「実験」とその「再現可能性」によって、人々の合意(=普遍性)を獲得できるものに鍛えていけるのではないか。

アニメ法則(?)の普遍性はどのように生まれ鍛えられるか

アニメ法則(?)の普遍性もまたアプリオリには存在しない。つまり、アニメ法則(?)の普遍性は、人々との「対話」のなかでアポステリオリに「発生」してくるのである。人々との対話を「実験」と類比するものと見なす。「実験」を通して人々に共通しているものを見出していく。その「共通項」が普遍性の元になるだろう。そして、対話を重ねれば重ねるほど、その普遍性は鍛えられていくはずだ。そして対話は同時に「再現可能性」の検証でもある。
なんだか迷走してきたが、まず、ktzwさんの文章の以下の箇所への俺なりの回答をしようとしている。

しかしそれは、本当に普遍性を確保できているのでしょうか。如何なる手段を用いれば、そんな普遍性が確保できるというのでしょうか。そして何よりも、如何なる手段を用いれば、その普遍性の程度を計測することができるのでしょうか。言い換えれば、その普遍性というものを支えている根拠は一体何で、その根拠に誰しもが従わなければいけないと一体誰が証明できるのでしょうか。

例えば、自主ゼミで大学生数人が話し合い、合意に達した普遍性など、一般的には普遍性とは呼べないようなものだろう。しかし、少なくともその数人の間では共有できる、小さな普遍性があるのは確かだ。それをさらに外部の人に吟味してもらい(対話)、鍛えていくことは可能なのではないか。
ktzwさんは「普遍性」を曲げることのできないある種アプリオリなものと見なしてしまっているようだが、そうではない。普遍性はあくまで可謬的で暫定的なものであり、合意できない可能性もある。それならば合意できるものに鍛えていけばいいのである。

そんな普遍性は普遍性とは言えないのだろうか?

しかしそれは、共感できる人の小さなコミュニティのみに共有される、客観性の仮面を被った狭い主観性の牢獄に囚われることだと、私は思っています。


これは甘えではないか。いや、甘えているのは俺か。
合意できるものだけが普遍性だ。それは確かに合意の範囲内でのみ成立しているという意味では閉ざされているが、誰にでも吟味することが可能という意味では、どこまでも開かれている。
安住できる絶対的普遍性などないのだから、人それぞれを生きていくしかない。それは甘えだ。絶対的普遍性などないのだから、相対的普遍性を追求していけばそれでいい。それも甘えだ。どちらも甘えであり、どちらもその甘えを徹底する事ができる。しかし、それなら俺は後者の道を選ぶ。何故なのか。うーん。

俺は「人それぞれ」を生理的な嫌悪から忌避しようとしているのか。

「人それぞれですからね」という言葉に、後輩達が生理的な嫌悪感を覚え、それを「退却」と見なす気持ちも、よく分かります。


これは俺自身にも判断がつかない。半分は確かに感情的になっているように思うが、もう半分はそうではないように思う。ある程度は論理的に「人それぞれ」と言うことを否定しうるのではないだろうか。


しかしそれは、はっきり言って生理的な嫌悪に過ぎません。それが悪いからと言って、その言葉を排除し得る客観性などというものは、どんな手段を用いても確保できません。


俺が排除したいのは「人それぞれ」であるという「事実」ではない。その事実については積極的に認める。俺が認めないのは「人それぞれですからね」という発話である。人それぞれであるという事実はどうしたって排除できないだろうが、「人それぞれ」だと言って事態を片付けてしまうことは排除しうるのではないか。
やはり、感情的にしか言えていないなあ。この論証はとても難しい。しかし、その糸口として、人が本質的に社会的であること(人間は歴史を通して社会を営んできた)や、人の経験をある程度は自分の経験のように理解することが可能であること、共通の世界が存在していると信じていることなどを挙げることはしても悪くないだろう。それしかできない。
「「人間」は単なる人でもなければまた単なる社会でもない。「人間」においてはこの両者は弁証法的に統一されている」と和辻は言ったけれど、その論証は結構怪しい。ただ、我々はそれを自己の経験から検証することができる気はする。

人はある程度他人の経験を追体験できる?

「人それぞれですからね」という言葉に、後輩達が生理的な嫌悪感を覚え、それを「退却」と見なす気持ちも、よく分かります。


ktzwさんは「よく分かります」と言っている。「人それぞれですからね」という言葉を浴びせられそれに腸の煮えくり返るような経験をしたのは俺である。ktzwさんが俺の経験について「よく分かります」と言いうるのは何故か?ktzwさんもまた似たような経験をしているからなのではないか。つまり、人は同型の経験から、他人の経験を推測し、追体験することができるのではないか。
俺がktzwさんの経験・想いを再現することが可能であると俺は信じている。例えば、ktzwさんの釘宮理恵に対する想いを、俺はktzwさんが文章で再構築している経験からさらに再構築して、再現することができると思っているし、ktzwさんも説明すればある程度は分かってもらえるだろうと(それもおそらく他人の経験を自分のもののように追体験したというktzwさんの経験に基づいて)考えているからこそ、文章に起こしているのだろう。俺は、自分とktzwさんの意識がある程度同型であることを前提にしている。その上で、自分にも似た経験がないか探る。俺にとっての特別な声優体験について思い当たり、それを基にktzwさんの体験・想いを推定する。
人それぞれとは言え、その「それぞれ」の部分もある程度は理解できるのである。もちろん完全に他者が自分に回収されてしまうことはないのではあるが。

人はある程度は自分の経験を括弧に入れることができる?

合意の可能性の条件。
俺にもktzwさん同様に特別な声優体験があるとしよう。というか茅原実里に対してはあると断言するし、それはktzwさんも認めてくれることだと思う。俺は茅原実里に対して特別な想いを抱いている。それが俺の茅原実里の評価に影響するのは間違いない。それはktzwさんの釘宮理恵評価と同様だと考えられる(あまり根拠はないが俺は自身の経験からそう判断している)。
しかし、自分の体験が茅原実里の評価に影響しているという事を自覚し省察したとき、それを括弧に入れる(一時的に捨象する)ことが可能であるように感じている。これは俺だけの経験でではなく、そういうことが可能であるように世間でも言われていると想う。いや、まあ同時に、やっぱり不可能だよ、とも言われている気がするけど。

自己の経験を一時的に捨象できず、また他者の経験を追想もできないとすれば。

それは一般に「人それぞれ」だと考えられている領域について、人が語ることを不可能にするだろう。というか、誰もその領域に属する事柄について語らなくなるはずだ。人がしばしば固有の経験とそれにもとづく固有の想いについて語るという事実が、自己の経験を括弧に入れることの可能性、他者経験の追想の可能性を証明していると俺は考える。
適切な方法をとれば、固有性についても理解可能であると信じられているのである。だから人は「綾波とアスカのどちらがかわいいか」とか、そんな「好みは人それぞれだろ」の一言で片付けられてしまいそうな話題について真剣に討論する。どうにかすれば相手にも伝わると思っているし、説得され納得した経験がある。「語りえぬもの」は真に語りえないわけではないし、語る意味もある。
経験についてまとめておけば、完全にというわけにはいかないが、条件つきで、人は他人の固有な経験や想いを理解することができる、と俺が信じているということである。

合意の追求とその中で捨象される固有領域の救済。

自己の経験を捨象することが可能だとすれば、経験に左右されない擬似アプリオリ(全員が経験している)な領域をアポステリオリに「共通項」として取り出すことができるだろう(この期待と意味をktzwさんは否定しているよなあ。まあ確かに微妙だわ)。さらに、共通する経験がありうるため、経験の領域からも「共通項」を取り出すことはできるはず。それは全員に共通の経験でなくてもいい。
こうして、自他の経験・想い・意味を、その普遍性の度合い(共有する人の割合)を確認しながら、検証していく過程で、全く捨象されてしまうものはないと思う。本当にそれが同じ経験・想い・意味かあるいは違う経験・想い・意味かということを吟味する中で、全く捨象されてしまうものはないだろう。

より多くの人が納得し得るのような多数性を得るには、「人それぞれ」の延長線上に、どのような「それぞれ」が展開しているのかを、地道に追っていくしか方法はありません。
ktzwさんがこのように仰っているのも同じような意味でだと思う。
粘り強く対話・思考しつづけるならば、何かしらの普遍性を俺はこの手に掴めると思っている。いやー、なんか苦しいなあ。いや、どの論立ても苦しいんだけど。

そこまで含めてが、意味の総体であり、作品への想いを支えています。その文脈は、本当に人それぞれで違います。それを排除したところに、果たして本当に残るものがあるのでしょうか。或いは、そこに残ったものは、果たして本当に狭い主観を排していると言えるのでしょうか。その方法論の問題は、非常に難しいですが、しかし常に考慮されなければいけないところだと思います。

全面的に同意。

我々は何を語ろうとしているのか

NTゼミの目標は「人それぞれではない領域の確定/画定」だという。これは同時に「人それぞれの領域の確定/画定」でもある。どちら側にも目配せするということだろう。もっと細かく領域に線引きしていく必要があるかもしれないし、だとすれば、それぞれの領域でアニメを見ていく必要もあるだろう。なんだか、その辺りに我々が語ろうとしていることがある気がするし、それを意識していけば、方法は段々と洗練されていくのではないかと思っている。
つうか、そうね、これはktzwさんへの挑戦というだけでなく、NTゼミへの提案でもあったのだわ。

ktzwさんに応えきることは出来なかった。
考え出すと行き止まりばかりで、すぐに諦めてしまいそうになるのだが、そこで諦めてしまいたくない。それだけ。それは本当にただただ感情的に諦めたくない。

*1:この辺ものすごく誤解している気がしてしょうがないのだが、きっと近代物理学はそんなもんだろう。違うのかしら。