第5回のために

目ぼしい成果もないまま、NTゼミは続いている。
一人に一つずつ世界が与えられてしまっているにも関わらず、孤独な主観は無いらしいという事実に我々は苦しめられている、そのことを我々は散々確認してきた。「分かり合えないのならば何を言ってもいい」という最も不毛な相対主義には陥りたくはない。「分かり合えないのだから人が語りあう意味などない」とも思いたくはない。人と人が完全に理解しあうことはないが、緩やかに我々は結ばれてしまっている。我々を結び付けているものの総体を明らかにすることは恐ろしく困難であろう。その一部分ですら俺には無理なのでktzwさんなどに譲ることにする。俺に出来るのはせいぜい「解釈」でしかない。


恥さらすぜ。
嫌だあああああ。

レポート

今回取り上げるのは、TVアニメ『らき☆すた』第1話である。理由はまだない。選択おかしくね?

■はじまり
「劇場」の文字、「始まり」に言及する「声」。これらは、作中のキャラクターが物語の「開始」に自覚的であるかのように思わせる。また、第1話の終焉には作中のキャラクターが登場するテレビ番組風の劇中劇(?)が置かれている。つまり、第1話の始まりと終わりには、超越的な視点が据えられているのである。ごく平凡な若い女性の日常を描く本作であるが、その日常が偽装されたものであることの再確認、を超えて反本質的ですらある。あくまで作品の本質を想定するならば。


■オープニング
女の子が楽しそうに踊っているので楽しい。ここでは「女の子」「楽しそうに」という、2つの角度から書いてみる。
私には「キャラをアピールする」ということを根幹とする目的体系しか想定できない。目的論的に演出を考える場合、その制約は考慮せねばならないだろう。他にも目的の体系を想定することは可能、という逃げ道。
「女の子」。我々が「女の子(アニメ)」について共有しているであろうイメージの一端をここでは考えねばならないが、とりあえず大雑把に「かわいい」と言っておこう。かわいいのである。快なのである。だから、オープニングで踊るキャラは女の子でなければならないとまで言いうる。バカか。
「楽しそうに」。なぜ楽しそうに見えるのか。躍動感あふれるダンス、明るい色調、賑やかしいサウンド、それらに私の身体が反応しているからだろうか。その可能性は排除できない。最も楽しそうに見えるのは、タイトルが表示されたあとの4ショットである、キャラクターの奇妙な歩行を遠景から捉えた4ショット。この現象は不可思議である。先に挙げた可能性では説明できないように思う。奇妙だから、だとしか言いようがない。奇妙というのは、我々の現実・日常の観点からだけでなく、他のアニメ表現からの乖離という意味でも、だ。表現としての奇妙さは、そのショットにおけるキャラの「サイズ」から発していると私は思う。「楽しく見せる」という目的から選択されているサイズだと言えるのだが、文字通り(?)、引いた楽しさなのである。サイズの問題は本編でも触れねばならないので、この辺にしておく。

■カッティング
女の子がだらだらお話しているだけである。カメラを固定しワンシーンワンショットにしても問題ないのではないかと思える。実際、長回し気味のカットも多い。しかしながら、カットが割られないわけでは決してない。何のためにカットを割るのか。効果的な「語り」のためであろう。背景、フレーミング?などから「語り」について考えればよいと思う。私にはその観点しかないごめんなさい。

■イメージバックグラウンド
Aパート冒頭。スタートダッシュ!スタート時のスローモーション等、疾走をリアルに描きとったその直後、こなたは光を超えて走り出してしまう。私はここで一種の転倒を覚える。
このように何らかの転換を起こすため、想像的な背景が使われる機会は第1話においては、かなりの回数である。これには注目したほうがいいだろう。漫画的表現に満ちた一つながりの世界のようではあるが、可視的な境界がないわけではない。

フレーミング
どのキャラを画面内に入れ、どのキャラを排除するのか、その選択がカットを割るたびに行われている。むしろ、そのためにカットが割られているように感じられる。キャラだけではない、周囲の状況もまた、取捨選択されている。かがみの部屋にみゆきが見舞いに来てつかさと話し込んでしまうシーンなどは分かりやすいか。いや、どれもそれなりに明確な意図を想定することが可能なカット割である。
アングルについても。

■シーンの転換
そんなに気を使っていないようでもある。見ている分にも、さほど気にはならない。しかし、あまりにしれっと転換されて驚かないわけではない。シーンの中でも、細かいジャンプがあり、シーンというものを考えることが無効になっているかもしれない。

■逆光
こなた-かがみのイマジナリラインを超えての逆光。
イメージバックグラウンドの変容したものと見れば良いと思うが、漫然とはしていない。日常を一気に審判の時に変えてしまっている。それはこなたの気付き「あっ」という発声にエコーがかけられているためでもあろう。
審判の時のようであるが、その先にさらに解釈し、掘り起こさねばならない体系が潜んでいよう。しかし、面倒なので今は踏み込まないでおく。当日、口頭でお話しましょう。


■おわり
適当でごめんなさい。みんな、一部ずつ印刷してくるといいと思います。