近況、インポテンツ、明後日の咆哮、

だらだらと長いけれど、特に大事なことは書いてない。いつものように青臭いことばかり。素朴すぎて恥ずかしいわ勉強しろ!

また随分と放置してしまった。好んで放置しているわけではない。書けないのだ。自分が書くことが他人に理解されるのか、そう考えると書けなくなる。他人に伝わらないのであれば書く意味がない。正直なところ、私は自分の思考にまるで自信がない。今まで確信を持ってこの場に文章を書いたことなどない。あやふやな思考、その言葉は他人に届くのであろうか?思考の根拠が欲しい。
書けない理由はそれだけではない。そもそも思考が停止しているのである。曖昧な言葉すら紡ぐことが出来ない。私はこれまでどのようにアニメについて語っていたのか、思い出せない。根拠のある思考を求める私の志向が、無根拠な思考を規制しているようでもある。理由はどうあれ、思考は硬直している。どのように思考するのか、そこから考え直さなければならなくなっている。
実際のところ、私が直面している問題は、これまでと何も変わってはいない。ただ問題が自分の中でより明確化してきた。ktzwさんや夏葉さんのおっしゃるとおり、理論を身につけるべきなのだろう。理論、それは根拠でもあり方法でもありうる。理論?少し整理が必要だ。

いくつかのアニメ評ブログ(?)は文学批評理論や映画批評理論を借用し、思考している。そして、その試みはある程度成功しているように思われる(よく分からないが)。既存の理論を用いる最大の利点は、その理論においては、言葉が既に共有され、その概念が明確化されていることである。つまり、その言葉は他者に届きやすい。伝えたいことを明晰に突きつけることができる…かもしれない。私のように勘の悪い人間は、大人しく既に構築されているものを利用するのが良いだろう。だが結局、理論を個々の事例に適用する際には、勘・センスの良し悪しが問題になりそうだ。それでも、依拠するものが必要なのだと、今は思う。
理論を参照し、思考し、評を書く。書かれたものを読むときも、理論を参照する。理論が書かれたものを明かす。では、理論の正しさはどのように判断するか。どの理論に拠るべきなのか。俺には分からない。それはもう自分の好みで決めてしまえばいい気がする。解釈学でも記号論etc…なんでもいい。流行もあるだろう。絶対的に正しく不足のない理論はない。ただ、その理論に従って思考され書かれたものは、理論内では制度的に真理とみなされる。←自信ない。

いくつかのアニメブログ(?)は技術・技法の観点から、アニメについて思考しているように見受けられる。技術・技法の効果や意味がある程度確立されているのであれば、それは一種の理論であり、思考の根拠・方法にしてしまって構わないように思う。また、それが高度なものであれば、その使用自体を評価することもできよう。技術・技法の紹介だけに留まってしまってはいけないが、あるいは映画批評理論などを適用するとっかかりを見つけることも可能かもしれない。しかしながら、この方法には問題も多いように思われる。技術・技法に関してどこまで詳細に正確に知ることが可能なのか、という問題である。私は制作現場の人間ではないのだ。確実に知られることだけで書くのでなければ、つまり推測を交えて書くとすれば、それは無根拠と呼ばれるものになる。扱いが難しい。
扱いが難しいといえば、クリエイターの固有名を用いる思考である。これも同様の問題を孕んでいよう。繰り返すが、私は制作現場の人間ではない。誰が何をしているのか判然としない。判然としないものを持ち込みたくはない。また、多くの評者はクリエイターの中でも演出家・アニメーター・声優は取り上げても、背景や撮影のスタッフ(美術監督・撮影監督を除く)を取り上げない。おそらく取り上げるのは不可能であろう。アニメは演出家・アニメーター・声優のみの手によるものでないはずである。にも関わらず、スタッフ全員を取り上げることが原理的に不可能なのであれば、クリエイター評は破綻しているのではないのか?優れたクリエイターが存在するという事実を忘却してよいとは思わないが、その事実からそれ以上のことを思考するためには、かなりの慎重さが要求されるように思う。

なんだかアニメ評ブログ批判の色を帯びてしまったかもしれない。そんなつもりではなかったのだが、ルサンチマンが外向する。しかし、わけわかんねーブログが多いのも事実。もちろん私がその筆頭である。わけわかんねー系ブログ(私のことだ)は、自らが依拠する理論を明かさない。その痕跡すら見せない。彼ら(私を含むがこう呼ぶ)は、自己流の流儀でアニメを評価している。しかしその自己流の理論の全体像を明かしはしない。それゆえにわけわかんねーのである。「この演出はすごい!」と言うのであれば、自らの価値体系なりなんなり依拠するものを示して、その上で「すごい」と言ってくれなければわけわかんねーである(話が逸れるが未だに演出がすごいとはどういうことなのか分からない)。自己流であることそれ自体が批判されることはない。しかし、自己流を貫くことは既存の理論に依拠することよりもはるかに困難であるように思われる。理論を自分で構築し、その全体像を提示する。そのようなことが出来るのはよほどの人のみであろう。私には無理だ。
気になることがある。わけわかんねーと思っているのは私だけで、ひょっとするとアニメ評ブログ界隈あるいはアニメオタクには、私の知らない暗黙知・常識が存在するのではないか、と考えるのである。当然のこととして前提されている共通了解があるのではないか、と。その可能性が払拭できない。そうでなければ説明の出来ないことも多い。私は非常に物分りの悪い無知な人間なので、常識を知らない。イチイチそんな常識まで明示することをアニメ評者に求めることは不当かもしれない。しかしながら、そのような無前提的に自明な常識などあるのか?既に自分と前提(理論)を共有している者にだけ向けて書くのならば、その前提をすっ飛ばして文章を書くことが許される。しかし、それは俺が求めるスタイルではないし、一般的にブログで書くのならば不特定多数の読者を想定してしかるべきだろうとも思う。うむ、常識的前提を持たない者の怨恨感情が発露している。

すぐに自分が何を書いているのか分からなくなる。他者に対して明晰な思考を突きつけるために、私はある程度学問的な理論を身につけねばなるまい、と考え始めているということだ。それはそれで良い方法だろう。だが、それだけで満足できるのか。つまり、「我々は何を希望することが許されるのか」と問わねばならない。理論的に語ることは、いくばくかの明晰さを保証されるだろう。それには何の問題もない。しかし、理論では語りにくいこともまたありそうだ。例えば、私の感動を他者に伝えたい場合などはそうではないのか。ここで、自己流のアニメ評に立ち戻って考えてみる。先になんとなく批判した自己流アニメ評は、規範(自分ルール)を作品に当てはめる方法だったと言える。印象批評を全面的には批判してはいない。
印象批評に賭けねばならない局面があるようにも思うのだ。もちろんその場合も使用する言葉の概念を明確にするなどの努力は必要である。しかし、それでもどうしても文学的・詩的な表現をたたきつけねばならない場合がある。我々は何を希望することが許されるのか?そもそも、私の感情を他者へと正確に伝える手段などあるのだろうか?出来る限り言葉を尽くすことしかできないのではないのか?

この辺で終いにしておこう。語る能力を手に入れるまでにはそれなりの時間を要するだろう。まだしばらく沈黙せざるをえない。