CLANNAD AFTER STORY 第22回「小さな手のひら」の嘔吐とファック

今回の文章もあまりにガタガタで情けない。思ったことを加工しないまま書き出しただけだ。読みやすくまとめたいのだが、おそらく不可能だろう。思考をまとめるのではなく、まとまった内容を思考せねばなるまい。

今回の挿話において(も)、「手」は重要なモチーフであるように見受けられる。サブタイ中にも「手」が含まれる。「手」は特につながれるものとして映し出され、つまり「つなぐ」という役割を負っているように見える。ここで言いたいのは、手がつながれている→二人はつながっている、それだけだ。「手をつなぐこと」が反復され並行性を生み出しているのは、前回と同じだろう。ただその並行関係は「少女:人形=汐:朋也」から「少女:人形=渚:朋也」へと系列を移している(死の淵にある者の「手」を人形と朋也は握り締める)。ここから「少女=渚=汐=街=…」というようなことも、「世界という距離」を越えて、言えそうだが深くは立ち入らないでおく。さて「絆」を表現しているかのような「手」あるいは「手をつなぐこと」であるが、何者ともつながっていないように見える「手」がある。風子の「手」である。「ねえアタイも…」「ねえわたしも…」と即興の一人芝居をうつ、その直前のショットで風子は「手」を車のリアウィンドウにつく。すると、「手」が窓に映りこみ、あたかも「手」と「手」が合わせられ繋がれているかのうようだ。これは「手をつなぐこと」のヴァリエーションに見える(第19回のアバンも「手をつなぐこと」を強調するが、朋也が渚の仏前で「合掌」することもまたその変奏だと思う俺である。)。だが、この「手」は何と何をつないでいるのだろうか。ここでは風子のつながる相手は見えない。「見えざるもの」と風子は「手」をつないでいるのではなかろうか。第20回について書いたことをここで思い返してみる。俺は「風子は異質である」と書いたのであった。そしてまた、その異質性について、渚や汐と関係のある異質性であるとも書いた。結論から言ってしまえば、ここで風子は不可視の「異質性そのもの」と結びついているのではないか。鏡像と実体の半々に分かれるというイメージはまた、その体の「半分」を雪に埋もれさせ(世界と同化させ)、「人でなくなりつつある」と呟く少女とも響きあうものがあるようにも思う。風子は「世界という距離」を飛び越えている(かもしれない)。その距離を公子は越えられず、「におい」のするほうへと駆け出す風子を追いかけられない。駆け出す風子の背中に声をかける公子は、画面の左側から芝生の方へとは動けないでいるように見える。公子は風子に(いくつかの意味で)「ついていけない」。…。もう少し「手」について書いておく。ふっと我に返った朋也が最初に見つめるものが渚の「手」であるということは、やはり絆を感じられるのだが、その「手」から世界が始まっているかのようなショットの運行が面白い。渚の「手」あるいは渚を中心に世界が広がっていくかのような見え方。無知を承知で言えば、ハイデガー的な世界の広がり方なのかもしれない。「手」というとzuhandenだとかvorhandenだとかを連想しないこともない。他者は手の中から零れ落ちてしまう、とりつくせないものかもしれない。だが、朋也は永い「旅」の終わりに、逃れ去るものをようやく掴むことができたのかもしれない。過ぎ行く渚を大声で呼び止め掻き抱く朋也、逃すまいとしているように見えるだろう。もう離さない、その決意が見えるだろう。しかし容赦なく渚は零れ落ちて行くだろう…。いや、止そう。
「雪」もまた『CLANNAD』のモチーフの一つだ。雪は物語に「死」や「終わり」を導入しているように思われる。幼い渚が倒れるときにも、渚が死ぬ日にも、幻想世界の終わりに際しても、汐が死ぬ(?)日にも、雪が降っている。雪が降るという上から下への動きを、今回、光の玉が下から上へと立ち上るイメージを持ち込むことで打消し、「誕生」・「始まり」をわれわれに印象付けているようにも見える。
「におい」。(何話だったか忘れてしまったが)だんご大家族のぬいぐるみの「におい」は渚の「におい」だと言われていた。第20回では風子が汐の「におい」を記憶したと言う。そして今回の「におい」、「におい」をたどった先に眠っているかのようにわれわれには見える少女、汐。「におい」はまたしても「渚=汐=風子=少女=異質性」という系列を浮かび上がらせるように思われる。風子とは何者なのだろうか。言葉に結実させることが難しい。困ったもんだ。
気づくと、渚も死ななくて汐も元気な幸せな世界が広がっている。今までのお話はなんだったんだ?と肩透かしを食らったような気分になるのは、仕方のないことだ。並行世界は人の生死を相対化してしまう。人生の価値の絶対性はそれがただ一度きりだという絶対的一性に由来しているのではないか。人生が一つだけでないのならば、それがどれだけ幸せなものだろうが不幸せなものだろうが、まあ、どうでもよいことである。そこに俺たちを感動させる訴求力は認めがたい。『CLANNAD AFTER STORY』はそんな多元世界モノの枠にしっかり留まっている。しかし感動する余地がないわけではない。その余地とは朋也の発揮する超越論的自由である。移ろい行くものの中でただ一つ変わらないものに、俺たちは激しく感動できる。なぜか。そこに人間の自由を目撃するからである。宇宙におしつぶされそうな脆弱な存在者たる人間が、それでも宇宙に抵抗しながら、変わらず願い続ける。その願いは崇高である。宇宙の圧力に抗しうる願いだからである。それはこの宇宙を突破している。因果必然性などに支配された動物的な願いではない。人間の能力を超えて存在する願いだ。何度人生を送るとしても、決して譲れない絶対的な願い。決して変わらない、もはや必然的法則としての自由、必然的に二人は出会う自由。渚は「後悔しないでください」と言う。後悔はカントが他行為可能性の根拠と考えていたものである。後悔するということは、そのときに他行為可能性が存していたことを意味する。つまり自由を考えられる。渚は後悔を禁じる。他行為可能性を否定する。しかし、逆説めいているが、それが自由なのではないか。言葉を重ねれば重ねるほど、むちゃくちゃ言ってしまって、言いたいことが見えなくなっていく。朋也の見せた端的な自由こそが、人が生きる意味の根源なんじゃねえのか。そう考えれば、どうしたって人は『CLANNAD』朋也に感動せずにはいられないだろ。「ふたつのものが、それを考えることが多く、かつ長ければ長いほどますます新たに、また増大する賛嘆と畏敬をもってこころを満たす。それはすなわち私の頭上にある、星が鏤められた天空であり、私のうちにある道徳法則である」、よく知りもしないのにカントを引いてみた。こういう気分なのである。

本当に今回はわけわかんねえ文章だ。まとまりのなく雑で、妄想に満ち、とても内容など無い。やっぱりアニメはわかんねえ。アニメは隠匿している。俺は開示せねばならない。まだまだやるべきことがある。