CLANNAD AFTER STORY 番外編「一年前の出来事」

知っていることと知らないことのズレを上手く使って、番外編らしいとでも言おうか、ゆるい笑いを誘い出してくれる、とても面白い回だったと思う。カット数はおよそ250。「つくづく暇だよな俺たち」とつぶやく朋也のように、肩の力をぬいて見られるわ。
知/無知と書いたが、視聴者はほぼ全知の立場にある。われわれは大抵のことを知っている。まず第一にわれわれは渚さんと朋也くんが出会うことを知っている。これを物語世界内の登場人物は基本的には知らない。そのズレがなんとも心地良くはないか。いずれ運命的な出会いを果たす二人のそれ以前における交錯を目にすることのできる、その全知感の悦楽よ。また、当然のことではあるが、我々がこの番外編を見ながらにやりと笑えるのが何故かといえば、ある登場人物は知っているがある登場人物は知らない、というその事態全体をこれまた神が地上を見下ろすように知っているからだ。秋生は早苗が後ろで話を聞いているのを知らない(早苗はもちろん知っている)、杏はラブレターが春原たちのイタズラであることを知らない(春原たちはもちろん知っている)、渚は先生が見回りに来てなどいないことを知らない(友人たちry)。その事態全体を我々が目撃できる、その語り口ゆえに我々はくすりと笑える。なんかあまりに当たり前のことで、書いてもしょうもないなー。しかし書く。特に秋生と早苗の知る知らない関係の語り方が新しかったような気がする。「私のパンは○○だったんですねー」「俺は大好きだー」という秋生と早苗のやりとりは、もうお決まりのよく見知ったものだ。けれどもこれまでの「語り」方では、秋生が早苗のパンを酷評する段では視聴者は早苗が側で秋生の話を聞いていることを知ることができなかったのではないだろうか。つまり、突然、早苗のミディアムショットなりが秋生が早苗パンを酷評しているショットにつながれて、そこで初めて我々は早苗が話を聞いていたということを知るのではなかっただろうか(記憶違いだったらご指摘いただきたい)。しかし、今回は、そうではなかった。秋生の酷評の段階から早苗がそれを聞いていることを、我々は知ることができた。その両者のズレを一挙に目撃できるが故の面白み、というものが今回、新しく付加されていたように思われる。それは「語り」の変化に起因している。視聴者の知識を限定する「語り」から、限定しない「語り」への変化である。視聴者がある登場人物よりも多くを知っているとき、そこにはサスペンスが生まれる。…かもしれない。視聴者がほぼ全知の立場にある今回の挿話の中で、我々がなかなか知ることのできないものがある。くす玉の中身、とりわけ朋也の書いたメッセージの文面である。ここでは逆に登場人物のほうが視聴者より多くを知っている。そうなると、なんというか、焦らされる。これもサスペンスだなあと思うあたり、俺は「サスペンス」を誤解しているな、きっと。何が書かれていたのかを我々は知りたくて、知ってしまえばふっとカタルシス気分になれる。ゆるい。俺の脳が。
何より笑ってしまうのは、スローモーションで落下する金だらいである。より正確には、スローモーションとその後の倒れる渚の相対的な速さのズレ、というべきだろう。これはあまりに古典的ではないか。ここで笑ってしまうのは、恥ずかしいことでさえあるかもしれない。今回の挿話は全体的にかなりそういう温さがあるようにも思える。そのような微温的な笑いに快く浸ってしまう。いや、わからない。ラストカットは非常にクールにも見える。静止したギャグ、引いてゆくキャメラ、それらはあまりにクールだ。
楽しい回だった。と言っておけばまとめた感が出るか。