ソウルイーター最終話「合言葉は勇気!」

書けることは決して多くない。非常に優れたアクションアニメだったと思う。だが、それゆえに言葉にして留めることが難しい。アクションなんてどう評価したらいいんだ。気持ちよかった、と言うくらいしか俺にはできない。それでも、一年間も楽しんだのだから何か書き残しておこうぜ、という想いもあり。なんとか。
ソウルイーター』の戦闘シーンでは、なんとなくだが、「強い」キャラクターが右側に配置されることが多かったように思われる。これは厳密に規則的ではなかったかもしれないが、なんとなく、そうだったと思う。画面右側に位置するキャラクターが、どちらかといえば強く、流れを持っている。ホントにそうか?と問われると自信はないが、そうとでも考えなければ、この最終話で行われる驚くべき左右の位置転換を説明できないのではないだろうか。
順に見ていけば一目瞭然であるが、序盤において右側に位置しているのはマカだ。マカは左を向き、鬼神は右を向いている。この見かけ上の位置関係があるタイミングで反転する。マカは左側へと押しやられ、逆に鬼神が右側へと移動する。この反転の前後で確かにマカの苦戦度合は上昇していくようだ。しかし、この明らかな見た目上の転換ほど、我々が構築する物語上では両者の位置は逆転しないのではないだろうか。もとよりマカには主導権などないように思われる。しかしながら、見た目上において逆転しているということだけは確かで、それには留意せねばならないと俺は思う。さて、なんだか話がこじれたが、この位置関係の逆転はもう一度だけ起こる。そして、その逆転こそが真に我々を驚かせる。逆転はマカが鬼神にとどめのパンチを打ち込む、その「瞬間」に起こっている。それまで、相変わらずマカは左側に位置していた。パンチを打ち込むにあたり、マカは鬼神に向かって突撃していくが、その流れの中においても変わらずマカは左側に位置し、右側を目指してものすごい勢いで突き進んでいく。すばらしいアクションである。その迫力あふれる左から右への方向性が、パンチの瞬間、突如として右から左の方向性へと逆転してしまう。これは不可解ではないか。マカは恐るべき勢いで疾走している。勢いにまかせて、その流れのまま鬼神にパンチを叩きつければいいのではないか。そうしないで、パンチの前にマカと鬼神のほぼ真正面からの2ショットをわざわざ挿入することで方向性を中和し、左右の逆転を成し遂げてしまう。「強い者を右側へ」という「規則」が存在しているとしても不可解に思える。それでもこの逆転に理由を与えるとすれば、やはり、「見た目上の大逆転」と「物語上の大逆転」を結びつける、ということなのではないだろうか。
我々は曖昧な理屈で構築した物語内容を非常に重視する傾向があるように思われる。(テキトーなことを言うが、それが「原作至上主義」の原因の一つだったりするのだろう。物語内容という構築物は、構築物という性質の同一性を担保にして、メディアの差異を超える。)しかし、構築物は構築物に過ぎない。それを括弧にいれて、目に見えるもの耳に聞こえるもの「そのもの」に改めて注意することも、ときには必要なのではないか。この挿話中での最後の左右の逆転は、確かに「流れ」を断ち切ってしまっている。それを批判することもできるだろうし、「物語的にはそんな逆転はそのときには起こっていない」と言えるかもしれない。しかし、擁護することもできる。やはり大逆転が起こっているように俺には「見える」し、大胆なその変換に驚かされた。その驚きこそ、喜びである。
こじれる。アラビア語は我々にとって、端的に「分からない」言語である。全く心得のない俺にとって、その文字列はインクの染みにしか見えない。そんな「分からないもの」として「勇気」は、鬼神に現れたのだろう。鬼神は戦いながらブツブツと「言葉」をつぶやく。彼は「世界」を「言葉」「ロゴス」で「裁断」し、「分」かろうとしている。はっきりとしない「分からないもの」は彼にとって恐怖の対象である。しかしその恐怖自体は「コワイ」という「文字=言葉」ではっきりと映し出される(その明確さは一定ではないが)。知による世界統握を妨げるのは、別の体系を持つ知なのではないだろうか。それがアラビア語の「勇気」だった。「言葉」が問題にされている。