『ターミネーター4』

久しぶりの更新で何故アニメの話を書かないのかとか自分でも解決できない問題があるのだが、数日前に見た映画の感想を書いておくことにする。何故、映画の感想を書くのか。それはある程度明確な理由があり、すなわち、同行者が「つまらん」と言っていたからだ。俺は割りと面白く感じたのに。同行者の言うことも尤もなことであった。それゆえに俺は俺の感じたことを消し去ってしまうのが怖い。
どこが面白かったのか?言ってしまえば、俺は『ターミネーター2』がそれなりに好きだということなのだろう。今作『4』は、俺の目には、ひどく『2』を意識して作られているように見えた。それは、まあ、ファンサービス的なものなのか。ひょっとすると『1』や『3』も意識されていたのかもしれないが、『1』はともかく『3』は映画館で一回見ただけなので、正直ほとんど覚えていないんだぜ。とまあ、『2』へのオマージュだけでかなり俺は楽しめた。シュワちゃんが出てくるだけでも十分だ。
同行者は「画面のテンションが低くて、決着をつける気がないのが分かってしまったので退屈だった」と言っていた。その感覚は鈍感な俺には良く分からないのだが、むしろ今作は「決着をつけないこと」を一つの主題にしていたようにも思える。決着を望む視点からすると批判すべきことでも、それを主題(のようなもの)として受け入れることで、むしろ楽しめるのではないだろうか。
◆「宙吊り」にすること
『4』においては、ひどく重要な事柄が宙吊りにされているように俺には思われる。それは一言で言えば「人間かロボットか」という事柄である。例を挙げるならば、「戦争に勝つのは人間かロボットか」であるとか「マーカスは人間かロボットか」ということである。その割り切れなさが、特にマーカスに関して、ドラマの源泉になっていると思う。白なのか黒なのかどっちなのか分からない、その往還運動がドラマの源泉になっている。というようなことは、ひとまず置いておく。文章がへたくそだな。
先ほどから、俺は「決着をつけないこと」や「割り切れなさ」という事柄を「宙吊り」という言葉で表現してきたが、これは、さほど恣意的な言葉遣いではない。実際に、映画の中で、人間がロボットが、そしてマーカスが見事に「宙吊り」にされるのである。まず、映画冒頭のシーン、ジョン・コナーがロボットの施設に潜入する際、彼は命綱をつけて、大きな縦穴に飛び込む。ここでまず人間が「宙吊り」にされる。そして、マーカスとカイルが出会うシーンでは、T-600がトラップにかかり「宙吊り」にされる。さらに、コナーとマーカスの対面するシーンでは、マーカスは囚われ、「宙吊り」にされるではないか。その他にも「宙吊り」のモチーフは散見できるように思われる。
さて、これだけ「宙吊り」を見せ付けられると、何かしらの意味を見てとってしまうのは、人の性というものだ。この映画の主題の一つとして「宙吊り」を見込んでも仕方なかろう。さて、この映画における三者(人間・ロボット・マーカス)が一様に宙吊りにされるわけだ。またマーカスというキャラクターは人間とロボットとの「混血児」としてデザインされているわけだ。もはや、俺には、この映画が、人間とロボットの境目自体を「宙吊り」にして、カッコに入れようとしているように思われるのだ。すなわち、それがこの映画の狙いであるかのように思われるわけで―。というようなことは、見ていれば、多くの人が考えることだろうけども。
◆「顔」と「宙吊り」
ろくに考えをまとめないままに、書き進めていく。この映画にはむちゃくちゃアップのショットが多い。うんざりするくらいのアップがうんざりするくらい多い。もう少し引いてくれ、と叫びたくなる。人物の表情をよく見たい、物の細部をよく見たいという観客の欲望が強まっていて、アップのカットは増える傾向にあるという話を聞くこともある。確かに、そういう要因はあるのかもしれない。しかし、それにしてもアップを強調しすぎなのでははないか。何らかの狙いがあるのかもしれないと思った。
そして、映画の中で「顔」について触れられるシーンがあるわけだ。まず、スカイネットとマーカスが対話をするシーン。スカイネットは立体映像だかなんだか分からないが人間の顔の形をとり、マーカスと対面する。スカイネット自身が「この顔のほうが話しやすい」と顔について言及する。もう一つ気になったのは、まさに顔に触れるシーン。溶けた鉄を浴びた後、そのロボットがジョン・コナーの顔に指で触れる。まるで何かを求めるように、指を伸ばし、コナーの顔に火傷の痕跡を残す。このように、顔を意識させることが、アップのショットの多用以外にもあるわけで、ならば、それを気にかけて見ても仕方あるまい。そして、微妙なつながりであるが、人間とロボットそれぞれの頭蓋が踏み潰されるショットがあるのも気になる。さらに微妙ではあるが、コナーとマーカスの相貌が似ているのも気になる。
さて、では顔にはどのような意味があるのか。これも、「宙吊り」と同じく、人間とロボットの境界線を解体しようとしているのではないかと思われる。かなり強引な論だが。人間と対立するはずのスカイネットが人間の顔を形作り、またマーカスという人間的なロボットを作る。また、人間の頭蓋もロボットの頭部も同じく踏み砕かれ、そしてコナーとマーカスの相貌は非常に似ている。このようにして、境界が見えづらくなっていく。顔のアップが多いのは、それを「人間」として印象づけるためかもしれない。そして、その顔をスカイネットもまた「仮面」としてではあるが、所有しているということ。
◆越境あるいはNo Border
ここまで書いてきたことってのは、実は明らかな主題を様々なポイントからも見出せるんじゃね?という趣旨にまとめられるのかもしれない。何せ、ラストではあきらかに、人間とロボットの越境がなされるのだから。マーカス(ロボット側)からコナーへの心臓の移植。そもそも臓器移植自体が、越境的な行為かもしれない。生体から生体への移植でも、その間には飛び越えるべきものがある。死体から生体への移植には、さらに物体から生命への移植という、ものすごい壁がある。その壁を、この映画もまた飛び越えてしまったように見えなくはないわけだ。次回作があるのかどうかしらないが、コナーはロボットの「強い心臓」を手に入れてしまったわけで、やはり調停する者の資格を備えたように見えるんだよな。
『2』からして、シュワちゃん演じるターミネーターは非常に人間じみていたわけだが、さらにそれを推し進めて、もう主要なテーマにしてしまったと言ってよいのかもしれない。これまで対立してきた両者が、相互に相手を取り込んで、もはや完全な二項対立が成立しない状況への逆転。これまで未来からやってきていた援護者とターミネーターが、今作では過去からやってくる。そのような逆転もまた、一つの主題系として考えることもできるかもしれない。
◆おわり
何言ってんのか分からないかもしれないですが、十分面白かったと思うんですよ。俺は。まあ、確かにいろんな難癖をつけられても仕方ないと思うけれども、なんつうか、これはこれでアリかなというか。ごめんなさい。
◆おまけ
境界線を破壊しているんだなあ、と考えないと納得いかないところも多いかもしれない。例えば、スカイネットは何故、マーカスを停止させてしまわなかったのか、とか。停止させておけばコナーもカイルも邪魔されずに殺せたんじゃね?と思うよ。それに対して、スカイネットも結構人間的なところがあるんだよ多分、などと考えることで、そこを無理矢理スルーできるような気もする。無理か。
原題の「salvatoion」がどういう意味合いなのか、ちょっと掴めないんだが、どうしたらいいのか。
◆なぜアニメの感想を書かないのか。
時間がない。
俺が書かなくても、素晴らしいアニメ感想サイトさんが多い。
◆追記
どうでもいいことなんだが、思い出したので書いておく。俺は『ターミネーター』の魅力の一つは、ターミネーターがなかなか止まらないことだと思っている。やっつけた!と思ったら、まだ平気で動いていて追いかけてくる。それがすごく好き。それは、まあ、『ターミネーター』に限らず、その手のジャンルにはよく見られるお約束的なものかもしれないのだけれども。それを今作でもやってくれている。マーカスが死んだ!と思ったら、コナーが電気ショックで蘇らせる。で、コナー死んだ!と思ったら、マーカスが心臓をくれる。あー『ターミネーター』だなあ、と思った。死んだと思ったら生きている、ってのは臓器移植にも絡めて何か言うことができるのかもしれない。脳死で死んだことにするけど、生き返るかもしれないというか、なんつうか。あー。