『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』第一話「響ク音・払暁ノ街」

放送開始から一週間以上遅れての言及になり、その必要性は限りなく薄くなっているようにも思われる。しかし、どうもこの作品を無言で通過させてはいけないような気がする。いや、それは全くの嘘なのだが、こうして言及してしまっている。なんというか、この手の良く出来たアニメ(と言うことは不正であろうが)への抵抗感は常に感じるのだけれども、だんだん慣れていって、最終的にはすごく気に入るのもまた常であるのだから、もっと素直に受け入れたい。のだが、なんだか難しい。


◆呼びかける
もしこの第一話に感動的な部分があるとしたら、その一つは、谷底に落ちた彼方さんがラッパを吹くシーンだと思う。ここではラッパの音はただのラッパの音ではない。それは呼びかけである。いや、単なる呼びかけではなく、むしろ祈りである。誰にも届かないかもしれない呼びかけは、つまり誰かに聞き届けられることを希う祈りそのものだ。祈りはそれ自体で人の心を何ほどか動揺させる。だからこそ、呼びかけは人に届くとも言える。呼びかけが祈りであるのは、この挿話に限ったことではなく、日常においても同様である。それも合わさって、この呼びかけと応答は感動的だ。そして、彼方さんのラッパは下手だと言われているが、純粋な祈り=呼びかけであるこのラッパは、上手ではいけないのだ。第一話を視聴する限りでは、彼方さんはラッパ手になることを目指しており、ラッパ手とはラッパによって信号を伝達するのが役目のようだ。十分に熟練したラッパ手のラッパは信号であることになるだろうが、しかし、信号であれば、それはもはや当て所なく彷徨う呼びかけではない。信号は信号解読表を手にする者を目指している。彼方さんのラッパは信号ではなく、信号を超えた想いを響かせる可能性をはらんでいるのではないだろうか。そこに彼方さんの主人公性を認めてしまうのは容易いが、あるいは安易だろうか。*1


◆水と過去
やや作品から離れてしまった。具体的な語りを心がけたい。この挿話では、街の過去が物語られ、「水をかけること」が「神話」に由来することが言われている。水は悪魔の死骸(?)を隠してもおり、水が街の過去と結びついているのは確からしいように思われる。だが、水はまた、彼方さんの過去とも結びついているのではないだろうか。彼方さんの過去を描写しているらしいシーンでは、雨が降っており、彼方さんは涙を流している。その水が現在の水と呼応しないか。彼方さんの入浴シーンに注目して、風呂場のタイルが、過去シーンでのタイルと酷似していることを指摘しても良いのかもしれないが、むしろ、「街の過去-水」の変容としての「彼方さんの過去-水」であれば、むしろ水も何らか変容していてもいい。梨旺さんの鈴も、また過去と現在をつなぐアイテムだと考えられるが、その梨旺さんと彼方さんの出会いが、水に媒介されていることを指摘しよう。彼方さんと梨旺さんがショーウィンドウ越しに出会うシーンだ。このシーンでは、彼方さんはガラス越しに魚を見つける。つまり、このガラスが水・水面と化しているように見えるのだ*2。そして、その「水中」深くから梨旺さんが現れる。彼方さんと梨旺さんが出会うところに、水と(そのときには梨旺さんは持っていないが)鈴が存在している。過去と現在が変容したかたちで交錯する。それが、まあ、面白い。


◆時間に迷う
彼方さんは迷子になりがちだと言う。迷うことは普通、空間において可能であるが、彼方さんはこの第一話にあっては時間に迷っているようにも見える。いや、確かに彼方さんは普通の意味でも迷っている。しかし、彼女が気にかけるのは、空間的な位置よりも、時間的な位置である(彼女は時計をしきりに気にする)。そして、彼女は現在目指すべき場所ではなく、過去の象徴であるかのような鈴のほうへと、過去のほうへと迷い込んでいってしまう。やがて、彼女は谷底に落ちて、知らぬうちに更なる過去、神話のたどった道筋をなぞるように迷うことになるだろう(神話と同じようにラッパを吹く)。彼女が一旦は意識を失ってしまうのは、神話という起源にまで彼女が迷っていってしまいそれ以上迷えなくなったからではないだろうか。袋小路を突き抜けるように、彼女の呼びかけは「現在」へと届いており、意識を取り戻した彼女は正常な時間を回復している。つまり、彼女は本来目指していた場所へとたどり着いている。さらに言えば、その場所は「時告げ砦」と呼ばれる場所であり、その名の通り、時間を告げる、いわば時計そのもののような砦である。時間に迷っていた彼方さんは、梨旺さんによって、時間の中心へと位置することができたのである。歴史を語り直すことで過去が現在へと回帰する。なんというか、この後のお話の展開の暗示と考えることもできるのかもしれない。


◆その他
望遠パースが妙にかっこいい。

*1:信号でないにしても、饒舌な語りは真摯な呼びかけにはなりえないように思う。音楽的な詩のようなことばに、人はむしろ胡散臭さを感じるのではないだろうか。たとえば、政治家の演説やTVショッピングの売り文句など。人を引き込むようなリズムとは手を切ったところに、祈りは成立するように思われる。不器用なラッパは、人とのつながりを祈ることの標の無さと重なるのである。

*2:ガラスって液体なんだっけ?