ジェームズ・キャメロン監督『アバター』感想

 twitterほっちゃんが見に行ったってつぶやいていたので、今更ながら見に行った。
 ネット上でちらほら、「映像はすごいけどもそれだけの映画」というようなコメントを見かけていたので、まあそうなんだろうなと思いつつ見始めたのだが、見終わってみるとそうでもなかったような気がする。これまでの映画を殺して、新しい映画に生まれ変わろうとする、そんな力強い意欲を感じられる映画だった*1。「見ること」の変革、とでも言うか。片目のクロースアップショットで始まり両目のクロースアップで終わるこの映画は、徹頭徹尾、「映画」と「見ること」に意識的であるように、私には見えた。3D上映という古くて新しい技術との結びつきで、映画は変わりつつある。「映画を見る」ということの意味が変わりつつあるということである。その変化を、その変化だけを、この映画は描いている。散々指摘されていることなのかもしれないし、あるいは私の独りよがりかもしれないが、少しだけ、しかも大急ぎで感想を書いておく。
 この映画が、眼球のクロースアップショットから始められるとき、多かれ少なかれ、私たちは「見る」ということを考える。映画は見るものである。映画を見るのは誰か?もちろん、観客である。多くのハリウッド映画において、主人公は観客が感情移入をして見つめるべき存在である。その主人公の眼球が大写しにされるとき、観客との重なりが強く示される。類似、同一化。そして、さらなる類似点がある。この映画の主人公は車椅子に縛られているのである。まるで、映画を見ている最中はおとなしく椅子に座っていなければならない観客のように。まさに観客のアバターとしての主人公。映画においては、主人公は不自由な観客の乗り物である。観客は主人公に乗ることで物語世界を見て回ることになる(テーマパークの乗り物のように)。この映画の構造が、この作品においては、作品内で言及されている。不自由な観客は主人公に乗るのだが、不自由な主人公もまたアバターに乗る、このような二重構造。映画の観客のようにアバターという乗り物によってパンドラを見て回っていた主人公は、だんだんとパンドラに深入りしていくわけであるが、その関係の変容が、類比的に観客と主人公(映画)の関係の変容でもある。単純化していってしまえば、「見ること」から「触れること」への変容である。
 「触れること」という表現は適切ではないかもしれない。たしかに、この映画の中では接触によって、より高次の認識を得られるというような描写が頻出するのではある*2。けれども、それもまた全て「あなたが見える」という視覚的な表現に置き換えられる。映画はどうしても「見ること」から逃れることはできない。「よりよく見ること」にしか移行できないのである。見るということには隔たりが付きまとう。だから、こそ「科学者は観察する」とこの映画の中でも言われる。見ることは隔たりを伴うがゆえに、科学を可能にする(客観的な視座を与える)。映画を見るということも同じである。どんなに主人公に感情移入をしても、常にそこには超えられない隔たりがある。絶対に映画には触れることはできない。けれども科学者の限界もこの映画は描く。「よりよく見ること」が必要なのである。それは、旧来の映画と3D映画との間の差異そのものである。
 3D映画もまた絶対に触れることのできないものではあるが、まるで触れられそうなほど近くに映像を感じるのは確かである。その体験の差異、それ自体が、この映画では描出されている。映像がすごい映画というのは古今東西数多く存在するかと思うのだが、3D上映技術に伴う「映画」と「観客」と「見ること」の変化それ自体を描いているという点では、この映画は単に視覚的な驚嘆を与えてくれるというだけに留まらない作品であるように思う*3


 詳しく見ていかなければ分からないが、最近の作品で言えば、『アバター』と『涼宮ハルヒの消失』は並べて語られるべき映画だと思う。どちらも分身する映画、鏡の映画だからであり、また「見ることと触れること」の映画だと思うからである。私自身の『消失』評は、どこか別のところで書くことになるような…。


 大急ぎで書いたので、いつも以上に乱暴なところがあるかも。しかも、すごく当たり前のことを書いてしまった感。

*1:作者の意図を思わせる表現を使ってしまっているが、作者の意図について何か言及しようとしているわけではない。私にはそう見えた、ということしか私は語らない。

*2:主人公が最初に族長に握手をしようとすると強く拒まれたり、主人公が一族に認められると一族の人間が彼に触れたり、動物と神経?を直接接触させたりetcetc...

*3:ただし、この映画が「新しい」かというと微妙なところである。映画はその誕生においては単に「見る」ものではなく、もっと濃密な体験であったかもしれない。列車が駅に到着する映像を見た観客が、列車が突っ込んでくると思いパニックになったという逸話は有名であるが、それは映画が現実的な体験だったことを意味しないか。また、かつては座席が映像に合わせて動く、まさにテーマパーク的な映画館(?)もあったらしいが、その時代においては映画は単に見るものではなくより具体的な体験だっただろう。私は映画史など門外漢なのだが、『アバター』は映画史的な回帰でもあるんじゃないかな。いや、知らないんだけど。