『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』第七話「蝉時雨・精霊流シ」感想

 続けて感想を書いているとだんだんと自分の思考と嗜好が濃くにじみ出てくることに気づいた。


◆二元性とその崩壊
 前回・前々回あたりから、私はdualité、すなわち二重性あるいは二元性にやたらと固執しているわけだが、そもそもこの作品の根幹には新時代と旧時代という二元性が据えられているということを思い出させてくれる挿話だった。過去・現在、そして生・死の二元性。前回第六話の感想では、二元性が二つに分裂したまま、宙吊りにされているということを述べた。それは、二つのもの(たとえば偶然と必然)のどちらかが決定不可能であるという宙ぶらりんの状況であったのだが、今回第七話においては、別の意味での決定不可能性が現れているように思う。二つのものから一つを決定できないという不可能性ではなく、本来二つであるはずのものを二つにできないという不可能性。あえて指摘するまでもないことだが、この挿話では、画然と分かたれるべきものが、渾然として、二元性が崩れかけるのである。
 この第七話はフィリシアを中心に物語られている。そしてそれゆえに、二元性の崩壊、決してありえない越境は、主にフィリシアにおいて起こる。フィリシアは現在にありながら過去へと入り込み、過去においては更なる過去と出会う。例えば、彼女は陽炎の中に亡霊を幻視する。過去は皮膚から零れ出る真っ赤な血液のように、その境界を破り、現在へと侵入してくるのである*1。越境。過去においては、彼女は地上から地下へと落下することで、越境してしまう。地下、死者の世界。そこで、死者は生者のように立ち上がり語り始める。本来あるべき境界が相互に侵され無効化されてしまっているようにも思える。この第七話が過去のシーンから開始されるということも、二元性を脆くさせる一つの要因ではあろうが*2、しかしフラッシュバックは過去と現在を並置することはあっても、その境界を壊すことはない。境界を接した接触ではなく、境界が乗り越えられる場面、そして境界なき接触を見逃してはならない。現在のただなかに、境界を失った過去が現れる場面を。そんなものは見逃しようなどないのではあるが。
 二元性が崩壊するということは、最終的には旧時代と新時代とのあいだの境がなくなるということに結びつく。既に滅びてしまった旧時代と未だ滅びていない新時代が重なることは、つまり、新時代がいずれ滅びるものであるということを意味する。二巡目の世界。
 

ニヒリズムとその克服
 いずれ終わってしまう世界(あるいは既に終わってしまった世界)で生きることは、ニヒリズムを誘うだろう。事実、この挿話では複数の人物が生きることの無意味さを、逡巡しながら、あるいは断言するように、口にする。もう世界に何の未来もないのであれば生きる意味などないのかもしれない。それでも、フィリシアはこの残滓のような世界を生きることを選ぶ。前向きで良いお話やなあ、と思う。世界が「ひと掬いの泡」のように儚いものでも、暮羽さんが吹いたシャボン玉がきれいなのは確かだ。花火だってすぐに消えてしまうものだけれども、それでも華やかに煌いて美しいのは確かだ。ふと、大学の講義で目にしたこの文章を思い出した。
 

 われわれの行為や関係の意味というものを、その結果として手に入る「成果」のみからみていくかぎり、人生と人類の全歴史との帰結は死であり、宇宙の永劫の暗闇のうちに白々と照りはえるいくつかの星の軌道を、せいぜい攪乱しうるにすぎない。いっさいの宗教による自己欺瞞なしにこのニヒリズムを超克する唯一の道は、このような認識の透徹そのもののかなたにしかない。
 すなわちわれわれの生が刹那であるゆえにこそ、また人類の全歴史が刹那であるゆえにこそ、今、ここにある一つ一つの行為や関係の身におびる鮮烈ないとおしさへの感覚を、豊穣に取り戻すことにしかない。
 真木悠介「色即是空と空即是色」
 

 
◆「無意味」を生きることと『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』という「空気系アニメ」
 結末に虚無が待ち受けている世界において「成果」に着目することは無意味である。世界が終わるということは成果としては何も残らないということであり、必然的に無意味へと至る。そのニヒリズムを乗り越えるためには、「今、ここにある一つ一つの行為や関係の身におびる鮮烈ないとおしさへの感覚を、豊穣に取り戻すことにしかない」としよう。そのためには、過去形で語りだされる歴史=物語ではなく、現在の物語が必要なのである。それは一般的にイメージされる歴史的展開を描いた物語とは異なるものになるだろう。ひょっとすると、「空気系」*3などと呼ばれるような物語になるのではないだろうか。通常は「物語」には汲み取られない、細かな行為・関係・出来事に着目し、それを称揚することで、ニヒリズムを乗り越える次元を拓く。そのように考えたときに、歴史=物語の終末が一切の虚無であるという事実(?)が、『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』という「空気系アニメ」を肯定しているようにも思える。
 「別に過去とかは匂わすだけで完全無視のキャッキャウフフでいいじゃんよ」*4とは私の思いでもあるのだが、「キャッキャウフフ」することの理由が、過去といずれ訪れる未来にある、ということが示されている、というか。
  

*1:ナイフで手を切るシーン。

*2:慣習的に、開始を物語上の現在に置いてしまいがちだが、物語上の現在はそこではないというちょっとした錯綜。

*3:「空気系」がどのように特徴付けられる「ジャンル」なのか、私はよく知らないので、緩く考えてもらいたいのだが。

*4:http://yunakiti.blog79.fc2.com/blog-entry-4700.htmlより引用。