『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』第六話「彼方ノ休日・髪結イ」感想

 今回もあんまり書くことがないのに書いてみたら、とりわけトンデモぽくなった。前回第五話の感想で、外見と内容のズレについて語ったが、今回第六話ではそれがより顕著であるように思う。ズレを「二重性」と換言してもよい。前回はズレが解消されることはなかったように見えたが、今回は部分的には解消され、部分的には解消されないままであるように見える。二重性が二重のまま、どっちつかずの宙吊りにされている。


◆二重性
 二重性が現れているように見える部分を、大雑把に挙げてみる。まず、砦の本業と副業の二重性。副業を知らない彼方と、副業を隠す部隊の面々との二重性。さらに、部隊の面々の変装、そして小芝居の二重性(真相と偽装)。Aパートだけでも、このように次々と二重性(二つの面を持つということ、あるいは見え姿が偽装であるということ)が現れる。Bパートにおいても、ミシオさんの行為と本心の二重性などが見られる。
 けれども、もっとも大きな二重性は、Bパート冒頭において、私たちに姿を見せることになる。Bパート冒頭では、Aパート冒頭の数カットがそのまま反復され、同じ時間を別の時間から見つめることになるのである。BパートがAパートの語り直しであるという、この二重性に、ぼんやりとした興奮を覚える。


◆二重性、あるいは彼方さんとミシオさん
 AパートとBパートで描かれる二つの独立したアクションが最終的には交錯するように、つまり、二重性は解消されるかのように見える。たしかに、交錯=一元化によって、ミシオさんは失われていた箱を再び手にすることができる。二重性がパズルが解かれるようにほどかれ、それはそのまま寄木細工の箱が順々に開放へと向けられる様へと視覚化されて、最終的には箱が開かれ(ミシオさんの本心が暴露され)、ミシオさんとユミナさんは二重性に阻まれることなく親密な関係に収まることができる。
 しかし、一方で彼方さんはどうだろうか。たとえば、休日を満喫する彼方さんと任務(副業)に勤しむ部隊の面々との間のズレがなくなることはないように思われる。彼方さんは一致という満足に至れない。彼方さんは最後まで、砦の副業については知ることができないし、求めていた自分へのご褒美を入手しないし、梨旺さんとも親密な関係を築けない(梨旺さんは会話の途中で眠ってしまう)。しかし、この宙吊りが、実はこの作品の魅力なのではないかと私は思う。


◆二重性、あるいは偶然と必然
 既に述べたように、Bパートの一部でAパートの時間を別の空間から描き、反復しているため、この挿話自体が一つの二重性を有していると言える。言い換えれば、クロスカッティングという技法を採用することなく、二つのアクションの流れを愚直に折り返して連結することで、この挿話は二重性という積極的な意味を持つようになるようにも思われる。クロスカッティングという技法は、同時性の印象を強く生み出し、なおかつ複数のアクションがいずれは合流することを予感させるものであると思うのだが、それを採用しないことで、それぞれのアクションが独立した流れを持つものであるように感じられる(気がする)。独立した流れが、しかし、重なり合うということに、物語的な突出があるのではないだろうか。つまり、運命の問題である。クロスカッティングは偶然と必然をめぐる問いを、予め殺してしまうのかもしれない。すべての出来事に対して、それが偶然であるか必然であるかを問うことが可能であろう。そしてこの問題は古来よりいまだ決着のつかない問題である。つまり、この問題は永遠に二重性の中で宙吊りにされる。


◆サスペンスとしての『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』、宙吊りにすることの魅力
 唐突に問題のレベルを変えるが、たとえば一般的なフィクションにおいては偶然は認められない。物語の展開には因果関係、つまり必然性が求められる場合が多いだろう。過去にこういうことがあったから現在はこうなっている、というような歴史-物語的な発想が普通のことと思う。偶然に任せて物語を展開させると、ひどく支離滅裂に見えたり、極度のご都合主義に見えたりすることだろう。そのような一般的な理解に、『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』もまた従っているように思える。この作品は、あちこちに過去の断片を散りばめ、伏線を張り巡らしているかのようだからだ。しかしながら、一向に過去の断片は断片のままであり、伏線が回収され、大掛かりに諸々が明らかになるということはいまだにない。「なにがしたいのかわからん」みたいなコメントをtwitterで見かけたこともあったが、そう言われてもしかたのないほどの遅延ぷりだろう。
 しかし、私はこのあっけらかんとしたサスペンスが、結構気に入っている。多くの情報が示され、何かが起こっても全然おかしくないのに、何もおこらない、しかしいつ何が起こっても不思議ではない…という堂々巡りのサスペンス。一般的なフィクションの経験から、私たちは、因果連鎖的に物語が動き出すことを期待するのだが、それが飄々とはぐらかされる。この一般的なフィクションを馬鹿にしたような振る舞いが、ちょっとした快感なのである。いや、単なる変態なのかもしれないが。
 この挿話には、このサスペンスへの自己言及と称揚が見て取れるのではないかという気がしている。クロスカッティングを採用しないことで、大掛かりな二重性を生み出し、偶然と必然の終わらない問いを提出しているように思えるからだ。ラストの彼方さんと梨旺さんとの会話のシーンで、運命の問題を彼方さんが持ち出すが、梨旺さんが眠ってしまうことで物語内において決着は(やはり)繰り延べられる。無論、そのように私の目に映っているだけで、制作者の意図などは知らないし、実際のところ、このままこの作品がサスペンスを維持し続けるかというとそれはありそうもないことだ。だが、現状では、そこが魅力的に思える。もう散々焦らすだけ焦らして、特別なにも起こらないまま終わればいいのになー。


◆余談、イデアという終わりなき二重性
 この挿話中に、イデア文字による命名の場面があった。そこで父親らしき人物が名前を「顔」と言い換えている。結論から言ってしまえば、ここにも名・実の二重性が兆しているように思えるのだ。洞窟の比喩などが分かりやすいかと思うが、イデア論にも二重性がつきまとう。その二重性は終わることがない。ここまで二重性が見て取れると、やはり気になるのだ。事件が起こりそうで起こらないという二重性の宙吊りがサスペンスだとすれば、二重性とはサスペンスそのものでもあって、この作品はサスペンスに満ちていることになる。