アイドルアニメの定義ってものがよくわからないなあ。
かつてアイドルアニメが持っていた魔法性を、セラムンが取り上げて、ささみなのはにやってしまったとして、じゃあ、魔法性追放の首謀者であるセラムンや、それを享受したささみなのははアイドルアニメではない、ということでいいの?
アイドルが出てくるのがアイドルアニメ、ということでいいのんか?
その辺がよくわからない。
それはともかくとして、きらりは文脈を無視して現れた、魔法を持つアイドルということなのか。
それと、きらりは現実に存在するアイドル久住小春とリンクしているという面もあるよなあ。なんなんだろう。まあいいけど。



埋の話をしよう。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=457889357&owner_id=5436610

やっぱり可愛いのは、川澄じゃなくてのだめじゃねえかと思った。
アニメを見て声がいいと思う→声優を好きになる
という流れよりも、
アニメを見て声がいいと思う→キャラクターを好きになる
という流れのほうが俺の中では顕著なようだ。

もはや、キャラクターを作っているのが声というか声優なんだよなあ、俺の認識では。
声がいいと思う、と言うとやはり違っていて、声(演技とか含め)がいいと思う前に(同時かもしれない)そこでキャラクターがいいと思う、そして、それは声優がいいと思うということに直結する。
だから、語弊を恐れずに埋テンプレに従えば、
アニメを見て声がいいと思う→声優(キャラクター)を好きになる
となる。ようわからん。
つまり、のだめかわいい=川澄かわいい、なんだよ、のだめを見ているときに限れば(のだめを離れて、川澄単体でも超絶美人だと思っているが)。
そして、キャラと声優の直結が、中の人と呼ばれるものの不在を俺に教える。そこも、埋と論がかみ合わない原因だろう。どちらかというと、声優は外の人だよ、これも語弊にビクビクだが。まあ、中の人、という言葉が本来、何かの役割・仕事をする人という意味だから(多分)、役者という意味では中の人なんだけれど。キャラクターの向こうにいるという意味での中の人ではない。声優という顔の見えない芝居が、事態をややこしくしてるなあきっと。


声優がキャラクターの印象のほとんどを担っているというのは、埋も賛成してくれているんだよなきっと。

例えば、コロナ可愛いなあと思うとする。その声はまごうことなく千葉紗子の声であるし、コロナの可愛さの75パーセントは千葉紗子にあると言ってもいいが、だからといって千葉紗子可愛いなあとは思わないんだなあこれが。その辺が銛と違う点なんじゃ無いかと思った。

そうね。


概ね、埋と俺の意見は合致しているようだなあ。いろいろと差異はあるけれど、それは表裏一体というベキ差異のようだし。まあ、最大の差異、キャラクターを声優の前に立ちはだかる壁とするか否かという点のクリアは難しそうだが、それはもう仕方ないか。アプローチの違いというかなんというか。再度俺の考えを述べておくと、キャラクターは壁なんかじゃない。声優はその向こうに見えるものでもない。同時に見えてこなくてはいけないものだ。


最近、俺の中で困っているのは、声優=キャラクターであるがために、声優の演技をどう語ったらいいのか分からないということ。いや、もともとわからなかったんだが、声優の言葉をそのままキャラクターの言葉として受け取ってしまう俺にとって、演技の巧拙なんてものがなくなってしまった。聞いていて好きになれるキャラクターを作れていれば、それがいいということなのかしら。ようわからんわ。


というか、さらに適当なことを言うんだが、俺の好きと埋の好きに質、量の面で違いがあるんじゃないか。俺の好きは、多分ハードル低いんだよ。だから、好きになるのに肉付けがいらないのかもしれない。話しそれるけれども、アニメを見る→声優が気になる→ラジオを聞く→好きになるってのが普通じゃねえのか。って埋もそれなのか?俺はラジオを聞かないから、その辺がよく分からん。


比嘉久美子の話してやろうか?

好きにしてくれ。俺は人の話を聞くのが割りと好きだから、聞かないこともないぞ。


デリケートな問題に突撃して駄文と腐った脳をさらしたかもしれんなあ。これだけ書いたのに、言いたいことが上手く言えていない気がする。自分でしっくりこないというか、軽いように思えるんだから、きっとそうなんだろうなあ。考えをまとめる能力が俺にはないらしい。文章を書く能力もないが。
いろいろと勘弁してください。声優好きの人に怒られるかもしれない、という懸念は埋と共通なようで、それもどうしようもないな。まあ、コレが俺の結論というわけではないだろう。きっと、一時通過するものだ。もしかすると、そのうち今の埋と同じことを言ってるかも知れんなあ。


極論、と断りをつけないと怖いチキンハート。