アニメ語りたい

あらぬ=非存在は「ではない」を意味し、差異を定立するものであるという。

以後、西洋の思考はこの禁忌に呪縛されている。サルトルにあっても、世界に無をもたらすのは無化(néantisation)という意識のはたらきである。カフェにピエールがいない、その無があらわれるのは、ただ、ピエールと待ち合わせた私が、かれがすでに到着しているだろうことを望んでいたからにすぎない。充溢したあるのなかにあらぬをみてとるのは、たんに私の「欲望」であり「期待」なのである。さかのぼって、ベルクソンならそう言うだろう。あらぬがあらわれている場所には、じじつ、つねに差異が、べつのあるものが存在する。ピエールの定席には見知らぬ客がすわり、地震が破壊した建物にかわって、廃墟と青空がひろがっている。世界の無を捏造するのは、失望と悔恨である。
熊野純彦西洋哲学史―古代から中世へ (岩波新書) p55-56

これは何も存在論(?)に限って言えることではないと思う。アニメを見て、「ある」「あらぬ」と語るときにも、何らかのパースペクティブを持ち込んでいなければ、そう語ることはできないはずである。ただ感想を述べる際にも、パースペクティブ――極端な例を言えば「アニメはこうあらねばならない」というような――との差異を以ってのみ、何かしらを語ることが可能になる。絶対的に認識される本質的なものはない(ということはきっと多くの人が了解している)。では、俺に何ができるのか。おそらく、俺がしなければならないのは、あるパースペクティブでアニメを見ることの妥当性の確保だ。妥当性では弱いかもしれない、蓋然性あるいは必然性とも言ってみようか。パースペクティブという言葉は便利すぎて、何も言ってないのも同然かもしれない。そして、急には変われないだろうけれど、心がけ。そう見るのは何故か、という問いに答えるのは難しすぎる。本質的なものはないと書いたけれど、形式に関しては客観的に記述可能だろう。尺、カット数、カットの種類の内訳等々、そのような形式的な部分は。それは勿論無視できない。その境界は厄介な問題かなあ。