かんなぎ 第1話「神籬の娘」に関するホラ

ふとももがエロい!というところから、第1話について考えてみることが出来るかもしれない。
「エロいふともも」は「エロいおっぱい」ほど記号化の研究が進んでいない。そのため、エロいふとももを表現するためには、その記号ではなく、「エロいふとももそのもの」を描かなければならない。つまり、エロいふとももをアニメで描くことは、必然的に実写にある意味で近づくことになるだろう。実写の場合、表示的にはシニフィエシニフィアンが合致する。アニメでは完全に合致することはないが、しかし、精密な作画はシニフィエシニフィアンの隔たりを相当埋めるだろう。その隔たりが無ければ、そこには記号は存在できない。記号と観念のかわりに、「そのもの」と「そのものがそこにあるという印象」が作品を支配することになる。そしてそれが「かんなぎ」第1話だ。まとめてしまえば、「丁寧な映像から生み出される地に足の着いた、そのものがそこにあるという鮮烈な印象が『かんなぎ』第1話の特徴だろう」と。あまりまとまってない。
「丁寧な映像」と書いたのは、何も丁寧なのは作画だけではないからで、カット割も丁寧なのではないかな。特に、ロングショットの使い方の丁寧さ。「そこにある」ことへの拘りが伺えるように思う。例えば、アバンでは、ナギが現われた後のカメラが動くロングショットと、ナギが消えた後のロングショットの対比が鮮やか。「そこにある」ことへの拘りは「そこにない」ことへの拘りでもあるのだろう。
そして「そこにある」ことには、視覚・空間だけではなく、否応無く時間が関わってくる。それもアバンを見れば、良く分かることだろう。間の取り方が上手いというだけでなく、時間上に「ある」こと。時間を最も強く意識させられたのは、最後のシーン、ナギがトイレに行くのを仁が聴くシーンだ。12時を回ったばかりの時計が映し出され、同時に秒針が時を刻む音が聞こえ始める。この音の上に、このシーンは乗っかっている。時間の流れる音の上で、仁はまどろみ、ナギは排泄する。睡眠も排泄も極めて動物的な行為で、生存のための行為である。「生存」とは仏語や英語ではexistenceと訳されるが*1、ご存知の通りそれは「存在」とも日本語では訳される。時間上に在ること。空間的な存在感は、モンタージュされる度に抽象化していってしまう、それを時間はつなぎとめてくれるのかもしれない。
シーンの中で時間が大事にされる代わりに、というわけでもないのかもしれないが、シーン間の時間はバサバサと捨象されている気がする。シーンとシーンの間にどれくらい時間が経過しているのかが分からなくて、結構混乱した。混乱する必要などないのかもしれないが。仁の家が割と暗いせいで、やたら時間が経過している気になるのかもしれない。イマジナリーラインを飛び越えてまで、窓と外の明るさを映し出すのは、時間経過(さほど時間は経ってないこと)を俺に示そうとしているのかもしれないと思った。が、違うわな。
一応、第2話も見たのだが、1話と2話は別のアニメな気がした。どうなんだろうか。

*1:la lutte pour l'existence=生存競争、とか。