NARUTO疾風伝 第82話「第十班」に関する雑感

「世界」が壊れてしまうことがある。この「壊れた世界」は「世界の終末」というような古来の観念とは、とりあえず関係がない。ここで言う「世界」はいわば「実存的世界」である。大切な人が永久に失われたとき、見知った街が灰燼に帰したとき、世界は確かに在り続けているのだけれど、我々の「世界」は壊れてしまい、終末が訪れたかのような様相を呈することがある。視界の全てに喪失と不在が刻み込まれた世界。しかし、その世界の内に投げ込まれた我々は、その世界の内で生き続けなければならない。もう一度、私を掴みなおさなければならない。この第82話が決定的に優れている点があるとすれば、「世界」が壊れてしまい実存を喪失した人々が、依然として存続し続ける「世界」に気付き、新たに実存を掴みなおそうとする様が、丁寧に描写されている点だろう。
アバンでの灰色に塗りつぶされた世界こそ、まさに「壊れた世界」である。「世界」はそれまでの色を失い、絶望と失意に染まる。鮮やかな赤色で咲き誇っている花だけが、そこに決して現れない故人を現して止まない。焼肉屋のおばちゃんが「そんな」と泣き崩れるロングショットでの「ざわめき」もまた、「壊れた世界」の描写として指摘できる。チリトリが落下する鋭い音が「世界」を劈き、その前後で街のざわめきの性質が一変する。それは街の活気を意味しなくなり、何か意味不明の捉えられない「ざわめき」へと変わる。それが「世界」が壊れるということである。
にぎわう街のシーンもそうだが、日常生活の慎ましやかな表現はこの話数において特筆すべきだ。それは、アスマが「立派に殉職した」、つまり里を守って死んだことの表現でもあるだろう。しかし、俺はそれ以上に、シカマルや紅がアスマを失い、失意の「世界」に没入する一方で、平和で平凡で変わらない日常が存続し続けているという、その現実を俺あるいはシカマル達に見せつける意味があると思う。あの人が死んでいなくなってしまったにも関わらず、依然として自分は生きており、世界は変わらずにここにあることの不可思議さ。その不可思議さは時として、絶望を深めるけれど、その気付きがなければもう一度世界で生きていくことは出来ない。
将棋のシーン。父-子の対話を、長回しが泥沼のような自問自答に変性させてしまう。その自己反省の硬直は、決定的な発話を前に翻り、将棋盤は吹っ飛ぶ。この後、シカマルは何もかもをさらけ出すことで、新たな出発点を手に入れる。が、しかし、「パチ、パチ…」と少しずつ駒を進めていく中で、その出発点は目指されていたのではないかと思ったり。シカマルが直接的に自分を取り戻すのは、将棋の駒を動かしつつ作戦を練る、その過程の中であることからも、そういうことは言えそうだ。一個一個の駒を一マス一マス動かすというその操作こそが、少しずつ自分を取り戻す過程を類比的に表現しているようで、見事な構成だと思う。俺の解釈に引き寄せすぎか。


細かい演出・技法を考え出すとキリが無さそうなので、ざっくりと俺の感想を書いた。結局、ここしばらくのアニメの語り口に関する思考は、本当に役に立っていないなあ。前と変わらない。