『CLANNAD AFTER STORY』第20回「汐風の戯れ」の消化と吸収

アニメを糧とするための消化と吸収。だがやはり、思考が散逸しすぎていてとりとめがない。サブタイトル中の「汐風」を「汐・風」と見るならば、汐と風子の二者とその関係に着目して書き散らすのがよいだろうか。
風子は境界線の向こう側、彼岸にいるのかもしれない。この挿話において初めて風子の表象が導入されるのは、朋也くんと芳野さんの会話中だ。そのシーンでは、ひょこひょこと歩くハトが映し出されるショットがある。そのショットはおよそ17秒間あり、比較的長いショットだと言ってよいであろう。その長きにわたり映し出されるハトに俺は何かを感じる。さて、そのハトが歩いているのは、画面にクッキリと線を引く細い水路の「向こう側」であり、さらにその水路もまた柵の「向こう側」に見える。ハトが風子を暗に表示している、という明確な符牒はないが、ショットの長さがひっかかる。うーむ。
風子が異質な存在者である、ということは朋也がかなり直接的に認めているように思われる。曰く「別の生き物」だと。風子自身の言葉を借りるならば「宇宙人」とも言える。これらの語が発せられる会話のショットを見てみると、ここでははっきりと境界線が存在しているように見える。中央の柱がきっぱりと画面を左右に分割し、床の色も朋也と風子の側でそれぞれ異なっている。(少し話しを先取りするが、第22話においても風子と公子の間に境界が映し出されていたように俺には見えた。それはまたいずれ書く。)そして、そのショットでは、汐は朋也ではなく風子の側にいる。汐もまた風子と同じく異質な、彼岸の人なのだろうか。
汐の異質性についてはこの挿話中でも描写があると思う。朋也に内緒で一人歩きするという、その行動は異常で不思議であろう。もう一つ、異質性の符牒と考えられるものがあるとすれば、それは「かぐや姫」の絵本だ。この挿話にはモンタージュシークエンス(?)が頻出するが、最初のそれの中で、汐は病院へと出かけていく。その直前に部屋で汐が読んでいる絵本が「かぐや姫」である。「かぐや姫」とは周知のように、月の姫の物語であり、つまり「宇宙人」の物語だ。ここで、風子の「宇宙人=異質性」と汐がゆるやかに結びついているように見える。
さらには、渚もまた両者を結び付けているかもしれない。渚、つまり、渚をその意味内容とする記号表現としてのだんご大家族のぬいぐるみが。ぬいぐるみが渚を示すものとして機能しているのは明らかだろう(汐も朋也もそれが渚であるかのようにぬいぐるみを抱きしめる)。さて、風子が岡崎邸に遊びに来るシーンでは、風子はそのぬいぐるみを頭にのっけて「宇宙人」のような格好になる。が、これは同時に風子が渚の「顔をする」、渚に変装する、ということでもあるように思える(朋也の「渚はお前とは全く似てない」という台詞には苦笑する)。そして、汐もまた「宇宙人」化=「渚」化する。二人はやはり同じ異質性を分かち合っているように見える。この異質性がどのような性質のものかも考えることが可能かもしれない。異質=宇宙人=渚、と定式化してしまえ。すると、この汐と風子の共有する異質性が、渚と関係していることになる。では渚の持つ性質とは?その本質は後の挿話で語られていると思っているので、これもいずれまた。語れていないかもしれないが。
ここまで、汐と風子の同一性を強調してきたが、全く同じ性質の二人ではない。一人で歩くことと迷うことへの恐れの有無が二人を分けてもいる。けれども、この差異がどのようなものなのか、この挿話でははっきりしない。後の挿話でもどうなんだろうか…。「汐・風の戯れ」ということで、俺が気づいたのはこれで全部だ。しかし、他にも気づいたことを書いておく。
まず気がつくのは、上述したが、モンタージュシークエンス(?)の多さである。モンタージュシークエンスは、時間の流れを圧縮して見せるように思われる。ならばその技法の多様は時間を非常に加速するだろう。それは変化を顕著なものとして見せる。実際、この挿話において、季節は盛夏から晩秋へと変化しているよう見える。「変化」が『CLANNAD』の重要なモチーフであることは言うまでもない(か?)。その急速な変化の中で、汐は「渚化」し、病に倒れる。季節の変化が早いので、それを補足するためにシーンの冒頭に季節感を示す物(昆虫・植物)を映し出してんのかな。
最も気になるのは、何気ない会話の中に現われた「世界の破滅」とその爆発の描写である。さらりと提示されるものなので、なんとも思っていなかったのだが、第21話のサブタイは「世界の終わり」であり、また第22話では「幻想世界」を終わらせるのは、まばゆいばかりの爆発であるということことを考慮すれば、そんなに「さらり」と提示されたものでもないのかもしれない。どーなんだろうか。

特に何かまとめるわけでもなく気づいたことを書いただけになってしまった。しかも非常に構成が雑で悲しい。気づいたことを全部書ききれたわけでもない。あまりに断片的なものは文章化できなかった。
それはともかく、では結局、俺はこの『CLANNAD AFTER STORY』第20回「汐風の戯れ」をどう評価するのか?内容の豊かさには驚かされるばかりであるとは言える。豊穣なアニメの楽しみ、映像の連なりから見えてくる面白さ、という点ではとても良質なもののように思える。おそらく俺はこの挿話に潜在している豊かさのほんの一部を享受したにすぎない。もっともっと掘り出せるはずだ。その豊かさが同時に、挿話全体の一貫性・統一感をもかもし出している。快感を覚える。うーん、いや、なんかあっさりしすぎているな。もっと滾った想いをぶつけてしまえばいい気がする。それはまたいずれ。面倒事を先送りしすぎだ。