『CLANNAD AFTER STORY』第21回「世界の終わり」の消化と吸収

前回のエントリを読み返してみると、何が言いたいのかさっぱりな読みにくい文章で、非常に残念だ。今回は内容の濃い流麗な文章にしたい。が、それはなかなか難しそうだ。というのも、俺はこの第21回を上手く消化できないでいるのだ。消化できない=分解できない=分からない。分からないものを、そのままごろっと文章化するしかない。それはやはりごつごつした不恰好なものになるだろうし、そもそもそんなものに文章化の意味はないようにも思える。いや、さらに言えば不可能かもしれない。不可能を可能にする過程において歪み=妄想が混入している。くっそおおおお!!渚あああああああ!!

「異と同」あるいは「差異と反復」、そういうものによっていくつかの「平行性」(並行性でも意味は同じ?)が生み出されているようではある。アバンタイトルでは、医者が汐が渚と「同じ」病に侵されていると言う。ここに一つの平行があり、同時に父親として「同じ」である秋生と朋也にも平行関係が生じる。「雪」や「手をつなぐこと」という「同」により、「幻想世界」と(それに対するという意味での)「現実世界」の平行性も見えてくる。その他にもいくつか「平行性」を見出すことが可能だろう。平行性はどちらかというと「同」の印象を与えるかもしれない。しかし、同じだけれど異なる、というところに平行性の由来がある。平行性とは、同のとりもつ異、つまり変化である。変化するということには常に変化しないものがつきまとう。同じものが変化する。そうでなければ、それは変化ではなく、全く別のものの出現になってしまう。平行性は物語に全体性の印象つまり完結している感じを与えるものであり、またそれが変化であるとすれば『CLANNAD』の重要な主題でもある。この挿話においても「変化」は強調されていたように思う。会話においては街の変化が話題になるし、朋也の一人語りは物語を加速させ季節は秋から冬へとあっという間に変化し、クリスマスを控えた街を行く人々の足早な歩みはやはり変化を思わせる。そんな中で朋也は変化を拒否しているように見える。変化を拒否するものが、変化を変化として成り立たせている。朋也は「どこにも行かない」と言って汐を見守ろうとする(「旅行」したがる汐とは対照的に)。この挿話に限らず、『CLANNAD』においては街(変化するもの)の風景の一部として電柱・鉄塔・電線がしばしば映し出される。この挿話では特に建設用重機と共に電線等が映し出されていた。変化の象徴の一つと化しているのかもしれない。それらを街に組み込む電気工事が朋也の仕事だったわけだが、今回、朋也はその職を辞して、汐の元に留まる。そんな朋也があるシーンで「NEUE WELLE」と書かれたTシャツを着ているのはどういうことなのだろうか。変化を拒否する朋也もまた「変わらずにはいられない」ものなのだろうか。変化を拒否するために変化する。職を辞するということが変化を拒否することだとしても、それは紛れもない変化である(ただ、芳野との「約束」は未来を「固定」しようとする努力ではある)。人の死を拒み病院を建てることもまたそうであるように。…ぐちゃぐちゃ。そして、変わることと変わらないこと、「落ちてゆく砂時計」「移ろいゆく世界」と「ただ一つ変わらないもの」の対決が最終回に持ち越されていく。
重複するところがあるかもしれないが、この挿話中で反復されている事柄について少し書いておこう。反復されることにはなんらか意味がある可能性が高い。そこに注意してみる。今回の挿話では、「上を見上げること」「よろめくこと」「贈与とその拒否」「手をつないで歩くこと」「雪」「滲み」「(ある意味での)フルアニメという技法」「部屋の柱を利用した構図」「渚の写真」、というような反復があったように思われる(この他にもあるだろうし、ここに挙げたものが全て正当かどうかわからない)。それらのいくつかは「幻想世界」と「現実世界」の平行性の印象を生み出す。その中でも面白く感じたのは「よろめくこと」である。汐がパジャマを替えようとして立ち上がりよろめき倒れることと、消耗した様子の朋也が立ち上がりよろめくことに、俺は平行性を見て取った。よろめいた後、朋也の視線の動きに渚の写真、窓、その景色がモンタージュされるが、その中で朋也は窓の向こうに「幻想世界」を思わせる雪景色を見ているようだ。俺にはこれが、朋也の汐への接近が「幻想世界」へと接近させたように見える。前回、汐は彼岸的な存在者であると書いた。彼岸とは端的に言えば「幻想世界」である。Aパート冒頭の少女と人形が歩くシーンでは、人形の「僕」は人形であるがゆえに少女の体温を感じられないという。ここにははっきりと二人の異質性、隔絶が見て取れる。その垣根は最終回においてどうなっているか?居眠りしていた朋也が目を覚ますシーンに、非常に短いが、部屋の柱が汐と朋也の間に境界線を引いているように見えるショットがある。その境界線がBパートのアパートのシーンでは見られず(というかそのシーンでしか見られないのだが)、むしろ、柱と壁が作り出す第二のフレームは二人を「同じ」枠へと囲い込んでいる(このフレームが狭苦しく見える場合は、変化の拒否の意味にも見えるような気もする)。どちらの世界でも二者は近づいていっているのではないだろうか。
俺にはよく分からない奇妙な事柄も多くある。その一つは、秋生から朋也への贈与のもちかけとその拒否の反復である。秋生はお金とタバコを朋也へと贈与しようとするが、朋也は理由をつけてそれを断る。この反復は何だ。反復と見るべきではないのか。分からない。父親(秋生は義父だが)との関わり方として、これがこの作品のポーズなのか何なのか。奇妙といえば他には、朋也と汐が出かけるシーンで、異なる時間のショットが交互につながれていることだ。出かける準備をする時間系列と、出かけた後アパートの前の道を歩いている時間系列が交互につながれているが、これはとても奇妙で目を引く。しかし、これも良く分からない。ただ、その後のショットで朋也がアパートのほうを振り返り暫く見つめていることと何か関連付けることはできそうではあるなあ、とか。もう一つ奇妙なのは、朋也が嘘をついているように見えることだ。空っぽの冷蔵庫が映し出されるが、それは生活が困窮していることを意味しているように俺には思われる。「やばくなったら言うよ」との秋生に対しての朋也の言は嘘だったのだろうか?

大概、消化不良である。俺の混乱をそのまま反映してしまっている。あと一回だけ続く。
ここまでは俺がこの第21回を見て、「sはpである」と読んだにすぎない。それはそれだけでもある程度俺の評価のうちである。その読みにはなんら必然性はなく、半ば俺の創造だからである。しかし、さらに「『sはpである』はqである」というくらいまで言ったほうがいいと思っている。さて、俺は第21回「世界の終わり」をどう評価するか。やはり、上手く消化できないお話だったと言わざるを得ない。奇妙で不可解な点が多い。その全体性に収まらない部分というものが、あるいはこのお話の重苦しさを陰に陽に醸し出している、などと言うこともできるのかもしれない。けれども、それは俺の思っていることではないような。言明しがたいひっかりあふれる回だった、とだけ。