CLANNAD AFTER STORY 番外編『もうひとつの世界 杏編』、杏は本当にかわいいわあ。

更新してすみません。DVDレンタルして見たので、感想を書く。とても素晴らしい豊かなアニメなので、みんなも見たらいいと思う。マジで。できればDVD買って、俺に見せてほしい。レンタルだとアスペクト4:3なので、残念な感じがする。例によって文章はガタガタだ。ガタガタなのは、上手くまとめられないからだろうと思い、無理矢理、断章のようにしてまとめてみようとしているのだが、上手くいかない。無理矢理だからか。
◆序言:結語:双子であること
このエピソードにおいて、杏・椋という二人の登場人物が双子であることを見過ごしてはならない。見過ごすなんてことはありえないだろうけれども、強調しておいても困らない。双子であることとはどういうことなのか。双子は、杏と椋は、よく似ている。よく似ているけれども、同じではない。双子であることによる二人の対称性と非対称性、あるいは交換可能性と交換不可能性。それがこのエピソードでは上手に取り上げられていて、意味の豊かな源泉になっているように私には思われる。それだけが言いたい。
◆重なり合う声
杏と椋とが双子であること、その重なりと隔たり。それは、まさにこのエピソードの冒頭において示されているのではないだろうか。杏が「わたし―」と呟く、その声を覆い隠すように被せられる椋の「わたし―」。同じなのに、同じものを侵食するような異なりがそこにはある。
けれども、常に声は侵すものではないのかもしれない。青味がかった世界、いつどこともしれない世界で、杏と椋は同じように唇に人差し指をあて、沈黙する。ここでも声が、沈黙の声が重なり合っていると言ってみたくなる。このシーンの含意とは。秘密の共有のようでもあり、反対に、互いに本音を隠しているようにも見える。どちらであっても、二人は重なり合って、同じであるということが可能だろう。ここでは二人の声は協調している。
そして、声の重なりということで、最も圧倒されるのは、杏による椋の代弁である。椋の言葉を杏が語りなおすのだが、それが椋の口パクに合わせて語りなおされるものだから、まさに二人は重なり合ってしまう。それは代弁なのか、協調なのか、やはり侵食なのか。私には決定できない。
つまるところ、声は、二人が同じでありながら異なる、その狭間の境地を表象するものなのではないだろうか。それゆえに、私たちは椋の背後に、口ごもり泣く杏の姿を見る。のかもしれない。
◆重なり合う姿
杏は髪を切ってしまう。髪を切ってしまった杏は、椋にとてもよく似ている。二人はさらに近づくことになる。それでも二人は同じにはなれない。一人分の陽だまりに二つはちょっと入れないということなのか、杏は椋のポジションを奪取してしまうことになる。やはり、二人は重なり合いつつも決定的に隔たっている。一方で、二人は隔たりつつも重なり合っている。その決定不可能性こそがやはりこのエピソードのモチーフであり、また魅力なのではないか。
◆重なり合う唇
声と唇をセットで考えることもできるのかもしれない。けれども、私はキスを食べることの模擬行為として捉える傾向にあるのよね。食べることとの関連で言えば、春原が食べ残したメロンパンが気になる。メロンパンを食べ損なった春原は、杏をも食べ損なう。…うーむ。
キスの寸止めが二度繰り返されていることも気になるが。
◆ポジション(あまり良いことばが思いつかない)
朋也と椋がお弁当を食べているシーンで、二人はかつて杏が占めていたであろう位置・ポジションの空白を気にかけているようだ。冒頭のシーンでおそらくは朋也の席・ポジションに座っているのであろう杏。そして、欠席することでみずからの席・ポジションを空白にする椋。またセリフの上でも例えば、椋は「私じゃお姉ちゃんの代わりになりませんか」と言い、朋也は「お前といながら、違う奴のことを考えていた」と言う。特権的に反復される教室での一対一の告白シーンでは、朋也と椋・杏の位置・ポジションは見た目上の反転を起こし、交換される。
このように位置・ポジションの問題について、考えることができそうだが、どうだろうか。
◆画面外からの/への声
オフ・スクリーンのセリフがかなり多いエピソードだった。それはもう既にアバンからだ。椋と朋也の声は、時空を越えて響き渡る。椋と朋也のいる教室・時間と杏のいる教室・時間は異なっており、互いにどのような関係(時間的な前後関係など)にあるのか、判然としない。そのような散逸してしまいそうな二つの時空を、椋と朋也のセリフだけが強固に繋ぎとめている。これは、椋と朋也の会話に対する杏の反応をダイレクトに見られるかのようで、ドキドキするだけでなく、スピーディーな物語の展開にも使える非常に上手いやり方だと思う。特に後者の利点が大きいために、多用されているように感じられるが、それはまあどうでもいいか。
画面外での声・会話が入り込んできて意味上の(?)橋渡しをするシーンが多い。その一方で、画面外への語りかけの場面もあり、それがちょっと刺激的だ。教室に残った朋也が、一人でつぶやき始める。それは独り言であるがゆえに、物語世界内の誰にも向けられておらず、物語世界外に向けられているかのように、一時的に錯覚する。けれども、実は、そこに物語世界内の人物が現れる…。これは、それまで、画面を飛び越える語りが多用されていたがゆえに生じる驚きなのではないだろうかとも思う。
◆雨の中の杏
雨の中で立ち尽くしてずぶ濡れになっているというシチュエーションに私はすごく弱い。『マディソン郡の橋』のイーストウッドとか。それで、なんの脈絡もなくグッときてしまったシーンだった。
このシーンは唐突なのかもしれない。けれども、椋とのデートの帰り、朋也が横断歩道の真ん中で立ち止まれば、そりゃ杏が出てくるだろ、という気もしなくはない。横断歩道というのは、一種の「橋」なのであって、その途上で立ち止まってしまえば、朋也は宙吊りになりうる。杏は一人で何をしていたのか、という疑問は残るけれども。
◆葛藤・藤棚・藤林
ダジャレか。
藤棚が何度か描写されるので、これはどういうことなのかなと思った。すぐに思いつくのは、杏と椋の苗字である藤林とかけているのかな、ということ。次に思いついたのが、葛藤とかけているのかな、ということ。「葛藤」という言葉は、葛やら藤やらの蔓が絡まってがんじがらめになっているような状態から現在の意味が生じているそうで。このエピソードを凄まじく要約したときに「葛藤」というのも一つの答えとしてありうるだろうし。…。



というようなことを見ていて思ったのだった。ひどいグダグダ感。本当に面白いのでみんなで見よう!
おわり。