谷部原稿を書きながら声優について考えていたこと

もう既にかなり記憶の彼方なのだが。

俺は、面倒なことが嫌いだ。だから、何事も出来るだけ単純に思考したい。そこで俺は、アニメを見るときには、アニメの外側には何もないつもりで見る。そんな態度は、おそらく不完全にしか遂行できるものではないのだけれども、出来るだけそういう態度で見る。アニメは多くの人が関わり、複雑な工程を経て、ようやく出来上がるものだと思う。けれども、そういうアニメの外側のことには全く関知しない。ただ、完成したアニメという単純なものだけがそこにある、それだけで十分だと俺は考えている。ただアニメを視聴するだけの俺たちにとっては、アニメの背後にある事情などどうでもいい。視聴するアニメが全てである。そして、視聴されるアニメからは、アニメの背後へと遡るというようなことは、十全に達成できることではない。ある程度は推し量ることもできようが、それがさほど建設的とは思えない。*1
そして、アニメの外側には何もないと考えている人間には、声優というものが思考できない。俺にとっては、アニメキャラが喋っているのだと解しても何の不都合もないのだから。キャラクターの発する音声について、例えば、かわいいと思ったらキャラクターについて「かわいい」と言えば良いだけだ。むしろ、声優という非実在について思考することは、誤謬ですらある。幽霊について語るようなものだからだ。それでも、俺が声優について書かなければいけないとすれば、どのようなことを書けばいいのだろうか。それが今回の出発点である。それは矛盾でしかない。だから、無茶苦茶なことを書いた。声優が実在するという立場から書いていれば、まあ、まだ谷部らしい文章が書けたかもしれないなと思う。

どうしても作品の外部を要請しなければ声優というものが見つからない。外部性を密輸した。而して、その外部性が常に既に作品へと回収されるという運動の中にあることにしてみた。そうとでもしなければ俺にはどうにもならなかった。
作品の外部ということで着目したのが、音声としての言葉の韻律的な側面である。アクセントの強弱、音の高低、母音の長短、リズムや休拍など、音声としての言葉には音楽に似た面がある。この言葉の音楽性を声の表情と呼ぶことにした。何故、それが作品の外部性でありうるのか。難しい。はっきり言って根拠は何もない。言葉の音楽性が作品の外部でありうるなら、作中で流れる音楽などはどうなるというのか。やはり無茶苦茶を言っている気がして、もう放り投げてしまいたくなる。けれども、言葉の音楽性/声の表情は、音楽とは少しばかり性格を異にしているのも事実である。それは音楽ではないのだ。言葉なのだ。そして、言葉に先行しながらも、いまだ言葉ではないものなのだ。声の表情は、言葉に先行している。言葉にならない叫びであろうと、それ自体の表情により、意味を持つからだ。だが、やはり言葉ではない。*2
ありふれた挨拶の言葉について考えてみよう。「さようなら」という言葉。その辞書的な意味は固定的である。けれども、どのように発声されるかによって、その実際の意味合いは全く変わってしまうだろう。もう二度と会いたくないほど憎んでいるのか、すぐにでも再会したいと願っているのか、例えばそのような意味の差異が声の表情によって生み出されうる。しかし、それはまだカテゴリーの内側にある。だが、直ぐにでも再会したいと願う「さようなら」の発声においても、それは一通りではなく、様々な異なりが存在するはずだ。そして、この考えを推し進めていくと、もはや類型的に記述できない事柄と異なりにたどり着くことになる。声の表情はここでは細かな襞のようである。音声としての言葉は、その襞によって、作品を逃れ出てしまう。
作品/類型/カテゴリーというような言葉はここでは同じような意味で使っているのだが、これらの言葉の意味を説明するのは、俺が良いように使っているだけなので、大変だ。簡単に。作品やキャラクターは類型を免れないという考えを前提している。ある作品のある場面であるキャラクターはどういう風に喋るのか、ということは類型的にある程度は推測できると考える。その類型を、声の表情は揺さぶるのである。絵筆が輪郭線に届かなかったりはみ出たりするように。*3
声の表情の細かな襞は、類型を逃れるがゆえに、作品の外部であると言いうる。けれども、それはまぎれもなく作品の内部での出来事なのである。常に既に、声の表情の生み出す振れ幅は作品へと送り返される。

書いてもあまり意味がないように思えてきたので、ココで止めておく。
参考にした論文があるので一応紹介。
熊野純彦『ことばが生まれる場へ』(岩波講座『現代社会学5』1996年所収)

岩波講座 現代社会学〈5〉知の社会学/言語の社会学

岩波講座 現代社会学〈5〉知の社会学/言語の社会学


上のダラダラした文章を書く前にさらにダラダラした草稿を書いてしまったので、それもついでなのでupしておく。書いた本人が途中で嫌になるくらいの代物なので、読んでも怒らないでね。つか、読むな。

◆前置き
このブログにもし熱心な読者がいるとすれば、その方は気づかれると思うのだが、俺はアニメにどっぷり浸かってしまっていて、アニメの外側には何もないと平気で考えるタイプの人間だ。そういうスタンスでもって、事実、いくつかのエントリは書かれている。俺にとっては、声優というアニメの外側の存在者について思考することが、困難というか苦痛だ。なにせ外側など存在しないのだから。アニメのセリフはアニメキャラが喋っているのだと解しても俺の中では何の不都合もないのに、声優という「非存在」について考えるということは、無駄としか思えないわけだ。無駄、という言葉では不十分かもしれない。それは狂気ですらある。実在しないものについて、例えば幽霊などについて語る人を、俺たちは大抵、胡乱な眼差しで見つめるだろう。それに似ている。
いや、まあ、これは大げさな言い様ではある。俺とて、声優さん等、多くの制作者が関わることでアニメが出来上がるということは知っているし、クリエイターの人たちへの尊敬と嫉妬の念は決して軽いものではない。けれども、それはそれである。ただアニメを見るだけの俺たちにとっては、アニメの背後、裏事情などどうでもいい。見るアニメが全てである。見るアニメがあればそれでいい。そして、見られるアニメからは、アニメの背後へと遡るというようなことは、十全に達成できることではない。ある程度は推し量ることもできようが、それがさほど建設的な態度とは思えない。不確実性が混入するからだ。不確実性の上に築かれる議論は、砂上の楼閣である。砂上にあっても楼閣は楼閣、建設的ではあるのかもしらんが。それでも、俺は、背後にさかのぼるのではなく、見えるものについてだけ考えることのほうがより建設的だと考えている。見えるものと俺との間にあるものだけで、十分じゃないのか。どうしてオタクは背後へとむやみやたらに遡ろうとするのか。いや、裏事情を良く知っていること、それがいわゆる「通」というものであることは分かる。それを追及してしまうからこそのオタクなのかもしれない。じゃあ、もう面倒くさいから、制作現場に飛び込んでしまえよ。
とは言うものの、どうしても背後がどうなっているのか、誰が作っているのかということは俺も気になる。最近はエンディングのクレジットを見るのも億劫になってきているのだが、やはりそれでも、良いと思えるアニメを見ると制作者への興味が沸き起こるのを抑えられない。嫉妬するだけだから、止めたいのだが。

◆谷部原稿の出発点
声優なんて存在しねえ!アニメキャラが喋ってるんだよ馬鹿野郎!と胸中では想っていても、先輩に「書け」と言われたら書かなければならないのが、声ヲタ批評理論研究会、通称「谷部」の掟である。怖い。なんとかして、アニメに内在したまま、声優のことを書けないものか考えてみた。そのとき既に俺はアニメに内在してはいないのだろうけれど、それが今回、俺が谷部vol.3に書いた原稿の出発点だ。俺の原稿を読んで「わけわかんねえなあ」と思ったら、それは俺が実在しないものについて、なんとかしてひねり出して書いているからかもしれないし、「今更こんなこと考えてんのか」と思ったら、それは声優が現れるプリミティブな場について何ほどか思考しているからかもしれない。
声優の演技についてあれこれ書くことも可能だったかもしれない。だが、俺にはそれが出来なかった。声優がどういうものなのか、それが分からないのに、声優が実在していることを前提に書き進めることがどうしても出来なかった。アニメを見ていてもアニメキャラの声しか聞こえてこないんだぜ、俺には。声優とかわけわかんねえよ。苦悩でしかない。

◆声優が実在していた頃の話、声優の出現と歴史性。
今はアニメキャラの声しか聞こえないとか言い放っちゃう俺だけれど、こんな俺にも声優が実在していると信じていた頃があったんだ。というか、つい最近までそうだったんだけれど、その発端というのはおそらく小学生くらいの時分に遡る。小学生の頃、アニメが特別好きな子供ではなかったし、アニメ砂漠の福井に住んでいたのだが、それでも少しはアニメを見ていた。小さな子供であっても、いくつかアニメを見ているとあることに気づく。すなわち、同じ声で喋るキャラが複数いるということに。そこで幼い俺は、声優さんという人々がいることに漠然と気づくのである。これが声優という思いなしの始まりだ。そして、俺の場合、最近になってアニメの外側には何もないということを悟るまでは、声優が実在すると思い続けていた。危ない。
声優のラジオを聴いていて、そこからアニメに入るというような人も一部にはいるようだが、多くの人が声優というものを知るのは、上記のような体験によるのではないだろうか。ここから分かることがある。つまり、声優というのは、その出現からして抽象的なのである。複数の具象から事後的に構築される抽象物に、私たちは固有名を名づけることで、声優を生み出す。そして、それゆえに、構築された声優は本質的に歴史的な存在者である。いくつものアニメを経ることで、構築されるからである。
以後、混乱を避けるために、この構築される声優を「」をつけて「声優」と表記することにする。「声優」ではない声優について思考することは困難だが、いわば純粋声優の想定はしておくことにする。

◆「声優」批評は修史である。

「声優」批評は出演歴など、経歴を追う形にならざるを得ないのではないかと思い始める。なるほど、事実、谷部『声ヲタグランプリ』を読んでみても、そのような形でのレビューを見つけることができる。けれども、そのようなレビューは面白いのだろうか。よく分からない。ここは開いておこう。
ただ、とりあえず、アニメの外側には何も(他のアニメさえも)存在しないという立場からは、歴史は形成されないのではある。やはり、無茶苦茶な立場なんだなあ。


◆声優アニメレビューという困難。
「声優」は歴史の中で現れるということは俺の中では納得に至った。「声優」批評はどうにか可能であるように思われる(よく分からないのだが)。しかし、やはり、一つの作品においては「声優」が現れることはなく(兼役は?)、声優アニメレビューという試みは挫折してしまうのではないかと思わされる。一つの作品を見ているだけでは、アニメが喋っているというふうに俺は解釈してしまい、声優の出現する余地がない。
その困難を突破する方途の一つは、「声優」の密輸ではないかと思う。密輸などと言ってしまったが、むしろ真っ当なやり方であろう。ただ俺には認めがたいだけで。「声優」という歴史的文脈を持ち込むことで、用意に作品内に「声優」を出現させることができる。しかし、この語り方は不信が拭えない。当の作品ではない何か別のものを参照してしまっている危険性をはらんでいるからだ。そして、どうやってもこの危険性から自由になることはできないだろう。
また別の方途も考えられる。作品内での歴史を辿ることだ。同じキャラクターなのに、音声としてのことばの韻律的な側面における変化が顕著な場合がある。アクセントの強弱、音の高低、リズムなど、いわば発声における「クセ」のようなもの、が時間を経るにつれて変化することがある。それは、確かになお、作品内の登場人物の変化に回収されてしまうものではあるが、かろうじて声優を感じさせるものでもある(妥協でしかないが)。『声グラ』vol.3においては、俺も『レギオス』レビューでこの方途を採用した。また下谷さんの『けいおん!』レビューもまた同様の方途で書かれている部分がある。この方途は一つの最終回答だと思う。だが、何かまだ物足りない。

◆失敗する声優アニメレビュー。
上に挙げた方途以外の道は困難の道だ。作品・キャラクターと声優との間にある循環への進入の方法を誤ること、それがその代表的な道である。これは極めて面倒な問題で、考えるのが面倒なので、簡単にその輪郭をなぞるだけにしておこう。
例えば、この作品においてこのキャラクターはこういうキャラクターなので、この声優の演技は成功しているあるいは失敗している、そのような語りがときどき為される。けれども、この語りは幾ばくかの不正を孕んではいないだろうか。モデルとなるキャラクター像をどのように俺たちは知ることができるのか、そこが全く分からない。


◆より先なるものとしての声優。
これまで見てきたやり方だと総じて、声優は「より後なるもの」であった。つまり、作品の後に歴史として接続されるものであった。「声優」としての声優である。そうではなくて、むしろ「より先なるもの」としての声優を考えてみようとしたのが、今回の谷部原稿であったという言い方もできるかもしれない。作品に先立つものとしての声優。それは未だ作品ではない。いずれ作品に回収される外部である。そこに声優を見つけ出したいと思った。

*1:無論、これは視聴者としての立場に立った場合の考え方である。俺は常に視聴者としてのみ「アニメ」を思考するわけではないので、異なる立場もありうる。但し、このブログを書く上では、視聴者としての立場を一貫しているつもりだ。

*2:ここまで考えてみて気づくが、声に限らず作品内の全てのものが程度の差はあれ、作品を解体する力を持っているようにも思われる。

*3:問題:この類型はどのように知られるのか。