涼宮ハルヒの憂鬱 第21話『涼宮ハルヒの溜息?』感想、拒まれる贈与の物語。

あんまり自分としても望ましくない方向性だなコレ。
涼宮ハルヒの贈与は失敗する−第20話に遡って−
第21話の感想を書くにあたり、少し前置きをしよう。第21話についての感想は、第20話『溜息?』の視聴体験と不可分だからだ。さらに言えば、後に続く第23話とも連続しているだろう。私たちは全てが終わってから、修史家のように書き始めるべきなのかもしれない。とはいえ、『ハルヒ』が歴史になってしまう前にしか書けないこともある。何言ってんだ。閑話休題。第21話はハルヒの贈与が失敗するエピソードとしても見られるように思うのだ。正直なところ、この見方は、私自身の共感すらあまり上手く取り付けていないのだが、試みに書いておくことにする。
贈与の失敗は第20話から既に兆している、と考えることが出来なくはないので、そのことについてまず書く。ハルヒキョンにお茶をぶっかけようとするシーンのことである。奇妙なシーンだ。ハルヒが彼女自らお茶を淹れるのも妙だが、エピソード全体との関係を関係を考えても、どこか浮いているように思われる。なんだか分からんが面白くて、気になるシーンだ。何なのだろうか。
ハルヒがお茶をぶっかけようとするが、キョンはそれを制してお茶を飲んでしまう」というふうにシーンを要約すると、すぐさま贈与という側面が見えてくる。これは見えやすい。明らかにハルヒキョンにお茶をプレゼントしている。けれど、これはむしろ、贈与の失敗だとも言える。ハルヒの意図したプレゼントは、贈られる相手自身の手で拒絶されてしまっているからだ。ハルヒの意図はさほど自明ではなく、いくつかの解釈がありえるが、贈与失敗もその帰結の一つだとは言えよう。
涼宮ハルヒの贈り物−第21話に定位して−
「贈与の失敗」という思いつきを胸に抱いたまま、第21話を見てしまう。そういう関心を持ちながら見ていて、最も気になるのは、ハルヒの贈与ではなくみくるの贈与だ。みくるがキョンに(またしても)お茶をプレゼントしようとするが、それがハルヒによって挫折させられる。これもまた多様な解釈がありうるが、ハルヒが周囲の人間にキョンへの贈与を禁止している、と見ることが可能だろう。さらに踏み込んで、ハルヒキョンを独占しようとしている、とまで言ってしまおうか。だが、皮肉にも、彼女自身の贈与もまたキョンには届かないのである。
さて、第21話において、彼女は何をキョンに贈ろうとしているのか?それは、言うなれば彼女自身である。CM撮りの後での部室でのシーンで、ハルヒは、「脚本を見せろ」とキョンが差し出した手のひらに、パシッと黄色い星をたたき付け、「全部こんなかにある」と言う。「こんなか」とはハルヒの頭の中のことである。整理しよう。脚本という贈り物(無理があるかな)を要求するキョンに対して、ハルヒは自らを表象する色である「黄色」の星をキョンに贈る。それは自らを委ねることであると解釈することが不可能ではない。そして、同時に、キョンにも自分に身を委ねることを要求してもいる。しかし、このハルヒの提案する相互に贈与しあう関係は、キョンによって拒絶される。拒絶の仕方については後述しよう。
星を手にたたき付けるカットとそれに反応するキョンのカット、これら2カットがやや唐突に感じられ、それが面白いので、気になってしまうんだなあ。
◆白色を追いかける黄色
リボンの色から、黄色はハルヒを表象する色の一つだと言える。この第21話には黄色いものが星以外にも、目立つ形で描写されている。風船とBB弾である。そして、黄色と対になるように白色のそれらもまた描写される。黄色がハルヒならば、白色は?おそらくキョンであろう。この作品における一般人として、あるいはハルヒの撮る映画における一般人としての中立性、どちらにしてもニュートラルな存在者としてのキョンのカラーとして、白は相応しい。
注目すべきは、白を追うように黄が現れることではないか、と私は思う。風船について言えば、最初に描写されるのは白色の風船であり、その後、それを追いかけるように黄色い風船が現れる。BB弾についても、作品内時間的には白→黄の順で現れる。黄は白に「後続する」と考えると、実はイニシアティブを握っているのはキョンであると考えることができるようになり、それが面白い。
なぜ風船なのか?という問いはどうでもいいことかもしれないが、空に浮かぶものとしての星と風船の共通性は指摘することができるが、カットはBB弾から風船に繋げているのだよな。
◆拒絶?−手のひらの上のハルヒ・ペアルック・クレジット−
キョンの手のひらにもたらされた黄色い星は、ラストカットでは黄色いBB弾へと姿を変える。それをキョンはどうするか。弾き飛ばしてしまうのである。「俺たちが考えることなど何もない」と皮肉にもとれるセリフを呟きながら、キョンハルヒとの相互依存の関係を拒絶していると考えられなくもないのだ。
さらに。本編撮影の日の集合場所のシーン。ハルヒキョンはよく似た青い半袖のパーカーを着ている。ハルヒはそれに気づいているようで、どことなく愉快そうに見える。それに対してキョンはと言うと、暑そうにしていて、今にもパーカーを脱いでしまいそうなのだ。実際に脱いでしまうことはないが、二人が同じであることへの拒絶に見えなくもない。脱いではいないので、二人は基本的に、同じ(相互贈与関係)であり続けている。ここで一つ奇妙なズレを指摘しておこう。EDのクレジットだ。「キョン 杉田智和」の文字だけ、妙にずれている。ここにキョンの歪んだ在り方を見て取ることもできるかもしれない。
◆まとめ
要は、ハルヒキョンに相互依存を要求しているのだけれど、むしろ主導権はキョンが握っていて、キョンハルヒの要求を拒絶しているように見えなくもないということ。ただし、完全な拒絶ではないのだろう。
あんまりすっきりしない文章になってしまったが、いつものことか。妥当性すら危うい。
◆天国と地獄(だっけ?)
ハルヒ可愛い。声が良く働いている。顔の表情も良いのだが、アニメキャラの顔には限界がある。その限界の向こう側は声の表情の領域だ。駅へと向かうハルヒは「ちゃんちゃんちゃかちゃかちゃんちゃちゃかちゃか」みたいな感じで、歌っているのだけれど、それだけで楽しい。声はコンテクスト無く意味する、とは私が常々思うことだが、その真実であることを感じる。この旋律を伴った声は、作品からは半ば独立している。それでも、その調子から、ハルヒがすっげえ楽しそうだということが分かる。どういう表情で歌っているのか、(描写される表情と総合的に、しかしより顔らしく)想像できる。その顔はアニメではなかなか描けないものかもしれない。けれど、十分に、声が顔なのである。平野綾を率直に褒めてしまう。最後の「ちゃ!」、かわいい。
◆余
俺は京アニの作品が割と好きなのだけれど、何故、好きなのかといえば、見ていて、「ひっかかり」が多いからかもしれない。その「ひっかかり」を人は演出と呼んだりするのか。良く分からない。