9月になってしまいました。

残念なことに、8月は無事に過ぎ去り、9月になった。もういちど8月をやり直したいと思う。全然、卒論の準備が進んでいないからだ。しかしながら、仮にもう一度8月をやり直せるとしても、どうせ同じ怠惰な8月を繰り返すだけなのではないかとも思える。結局、8月1日の俺は変わらないのだから、原因と結果の連鎖からは逃れられないのではないか、と思う。そこで、俺たちが『涼宮ハルヒの憂鬱』における一連の『エンドレスエイト』を見ていて気づかされるのは、どうやらハルヒたちの世界には自由が存在しているのではないだろうか、ということだ。ループの端緒における条件は常に同一だとして、それにもかかわらずキャラクター達の行動は、長門有希の証言によれば、微妙に異なり、同一ではない。
ヒュームの因果論やカントの第三アンチノミーなど、思考の材料は哲学史上にごろごろ転がっているが、とりあえず面倒なので、簡単なところを考えてみる。俺が二者択一の選択をしなければする必要に直面したとしよう。仕方がないので、俺はどちらか片方を選択する。だが、このとき俺には、もう片方を選択することも可能だったのだろうか。そのように考えることは、日常においても、決して珍しいことではないだろう。この問いに対して、さしあたり二つの回答がありうるように思われる。まず一つは、十分に躊躇い熟考したために選択が可能になったと主張する自由を擁護する回答、そしてもう一つは、その選択を為す何らかの理由があったから選択が為されたのだと主張する自由を棄却する回答である。素朴に考えると、どちらも正しそうな気がする。だが、これらの回答に対して、どちらも間違っていると主張した哲学者もいた。例えばベルクソンだ。
いや、実はそんなことはどうでも良いことである。確かに『エンドレスエイト』をベルクソンの自由論と絡めて、云々することはできようが、それはアニメを語ることではない。ただベルクソンを語ることでしかないだろう。そんなことは別に俺がするべきことではない。このエントリの目的は、俺が『ハルヒ』を見る日である金曜日に、俺が東京を離れてしまって『ハルヒ』が見れなくて、感想が書けないので、代わりにちょっとしたメモを残すことだった。以下が本題となるのだが、それもまた実はアニメには全く関係がない。
科学(おそらく脳科学が念頭に置かれているだろう)が発達してきて哲学(主に認識論だろう)はもうピンチです要らなくなってしまうかもしれません、などと言う哲学者が、本気でそう思っているのかは分からないが、ときどき居る。一方で、いくら科学が発達しようが哲学は不滅です、と声高らかに叫ぶ哲学者もときどき居る。俺は哲学者でもなんでもないけれど、やや、後者にシンパシーを感じている。最近、ベルクソンの『創造的進化』を読んでいたら、この書物全体がそういう雰囲気に包まれているのだが、とりわけ巻末の解説に、よくある感じの分かりやすい哲学賛美的な文章が乗っけられていて、なんだか良い気分になったので、そのことをメモしておこうかなと思った。少しだけ引用しよう。

生命あるもの、いいかえれば生物は、我々の経験によれば、この地上に、いたるところに、無数にある。鳥も、けだものも、虫も、魚も、草も、肝、すべてこれ生物である。(中略)生物学は、あらゆる生物が示す生命現象を研究対象とする自然科学の一部門である。しかし、生物学は「生物の生とは何か?」「生命現象の生命とは何か?」を問うことはしない。(中略)あらゆる生物、あらゆる生命現象を通じて、それらが生物といわれるときのその「生」、それらが生命現象と呼ばれるときのその「生命」とは何か?生物学はそれには答えてくれない。なぜならそれは哲学の問題だからである。
松浪・高橋訳『ベルクソン全集4』白水社1966年 解説430頁

ベルクソンなんか読んでいないで、卒論の準備をすればよかったなあと思います。それだけです。今から俺は福井に向かいます。おわり。

ベルグソン全集〈4〉創造的進化

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時間と自由 (岩波文庫)

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進化論の5つの謎―いかにして人間になるか (ちくまプリマー新書)

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