涼宮ハルヒの憂鬱第23話「涼宮ハルヒの溜息IV」感想

前回第22話の感想で「何やってるんだか全然分からない回だった」と書いたが、今回、その原因が明らかになったのではないだろうか。すなわち、キョンの自身への無理解のゆえに、我々もまた理解できないでいたのだ。大抵の場合、アニメの主人公は視聴者の「乗り物」である。我々は主人公という乗り物に乗ってアニメの物語世界を楽しむ。我々は、主人公が行くところへ行き、目にするものを目にし、耳にするものを耳にする。それゆえに、主人公が気づかないことには気づけない(ことが多い)。とりわけ、この『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品は、キョンと視聴者の同一化が強く起こる。POVショットとヴォイスオーバーはハリウッドの発明した同化装置の主たるものであるが、その二つがこの作品では多用される。キョンと同一化した視聴者にとっては、キョンの無理解がそのまま作品の無理解へとつながってしまう可能性がある。Bパートの前半部において、キョンはやたらとハルヒに腹を立て、それが原因で二人は対立してしまうけれども、キョンが自身が何故怒っているのかということを理解していないがゆえに、我々は見ていて「わけが分からない」と思うことになる。しかし、古典的ハリウッド映画のお約束では、主人公は映画の終わりまでには、必ず自らを理解することになる。主人公が自らの過ちに気づかないまま終わる古典的ハリウッド映画はあまりない(らしい)。それと同様に、最終的には、キョンもまた自らを理解し、過ちに気づく。そして、我々視聴者はこれまでのキョンハルヒの齟齬に理由を見つけることができ、ホッと胸をなでおろす。
キョンが自らを理解するシーンでは、キョンは箸に付着した米粒を凝視する。この米粒はキョンであろう。前々回第21話の感想で述べたが、白はキョンを代表する色でありうるし、また多くの白米のなかに埋没するちっぽけな米粒はキョンを思わせるに十分だ。その米粒をキョンが見つめるということは、自らを見つめることであり、反省(reflection)あるいは客観視を意味しうるだろう。キョンは自らを見つめ直すことで、自身に気づく。
我々はキョンと同一化しているため、そして画面もまた非人称的ではなく幾分キョン視点的であるため、前回や今回のハルヒの行いが暴虐に見える。けれども、客観的に見て、これまでのハルヒの行い(例:みくるをバニーにしてビラ配りをさせる等)と比べて、特に暴虐的かというとどうだろうか。これまでとあまり変わっていないような気もする。「間違っていたのはハルヒじゃない!キョンのほうだ!」と叫んでもいい。不当にもキョンに弾劾されるハルヒであるが、彼女は健気なことにキョンを待ち続けている。ハトをキョン色に塗り替えてまで。桜色に世界を染めてしまうハルヒ以上に、キョン色を望むハルヒが可愛いとか言ったら俺は殴られるのか。
映画撮影という虚構内虚構が関わってきて、一体何が嘘で何が本当なのか段々分からなくなって混乱してくるエピソードで、面倒くさい。他にも書いておきたいことがあった気もするが、出かけなくてはいけないのでこの辺で投げっ放す。とりあえず次回が楽しみです。