涼宮ハルヒの憂鬱第24話「涼宮ハルヒの溜息V」感想と妄想

◆結び合えないこと
前回第23話の感想の末尾で、私は「一体何が嘘で何が本当なのか」分からないというようなことを書いたが、今回は、各登場人物の言い分がことなり、ある意味では虚・実の決定できない挿話となっていた。しかしながら、今回の主題は虚・実というようなところにあるのではなく、むしろその手前の「異なり」にあるように思われる。今回の挿話においては、様々な事柄が食い違い、乖離し、結び合えない。それら一つ一つの事例を殊更に指摘する必要はないだろう。それらは映像の上でもセリフの上でも如実に現れているように私には思われる。
◆結び合うこと
しかし、そのような状況の中にあって一致するように思えるものがあるから面白い。何と何が一致しているように思えるのかといえば、それはキョンハルヒが、である。手始めに、ハルヒ以外の4人が喫茶店に集まるシーンを見てみよう。この欠席裁判めいたシーンにおいて、キョンは「ハルヒはどうだ?」内的に独白しているように思われる。ここで、キョンハルヒならばどう考えるのかと思いを巡らしている、いわばハルヒとの想像的同一化を試みているようにも受け取れる。また、夜の歩道橋の上で男子二人が語らうシーンでは、古泉にとっては「愛すべきキャラクター」としてハルヒキョンが一致していることが証言される。そして、キョンハルヒが二人で映像編集をするシーン。共に作業をしているという意味でも二人は一致しているが、二人は映画制作上の役割においても一致しているようにも思われる。キョンはエフェクトを付ける作業をしているようだが、その前にカッティングの作業もしていただろう(キョンが編集をすることは以前の挿話で仄めかされていたように思う)。もしキョンに最終編集権があるとすれば(どうやらハルヒが実際に作業をしていないのだからそうだろう)、キョンはただの編集者ではなく、(ハルヒの役割である)監督やプロデューサーに近い役割を果たしていることになる。第22話の感想で、私は「監督キョン」の可能性について語ったが、それはあながち妄想ではなかったのだろうか。第23話においてキョンハルヒに対して「この映画は絶対成功させよう」と言ったそのとき、二人の一致が始まったのは確かであろうし、その一致とはキョンの監督化だったのだと言えるのかもしれない。
◆結び合って、それで。
ハルヒキョンは、(あまり適切な事例を挙げられなかった気もするが)一致しているとみなしうる。そのように思って見ていると、なかなか楽しいシーンがある。ラストシーン、すなわちキョンハルヒがデートをしているシーンだ。このシーンではキョンの話そうとすることが、ハルヒに先取りされる。つまり、ある意味では、二人は一致していると言える(一致しているがゆえにデートをしているのかもしれない)。圧巻なのは、二人それぞれの真正面からのミディアムクロースアップショットが何度か切り返されるシークエンスだ。そこでは二人は完全に一致しているように見えるし、聞こえるのである。二人は、構図的にも一致し、アクションでも一致し、セリフでも一致するのだ。けれども、その一致は、一致でありながら、次第に不一致へと滑り落ちていってしまう。不安なほどにリズミカルな切り返しの反復は、ついにハルヒの怒りによって打ち破られる。そもそも最初から二人は接近してなどいなかったかのように。それでもなお、ハルヒは外で待っている…。
上手く書けていないのだけれど、このシークエンスは俺にはとても楽しく思える。デートしているというだけでも割と楽しいが、それだけではないように思える。
◆不気味なメガネたち
隔たりが今回の主題の一つだったのではないか、と上で述べたが、その中でもとりわけ「フィクションと現実の隔たり」が重要だったのかもしれない。それはそのまま、テレビアニメとテレビアニメを見る我々との隔たりでもある。ハルヒたちの映画の観客が描写されるのは2カットだけであるが、その観客たちは何故か、確認できる限り全員メガネをしており、彼らのメガネは不気味にスクリーンの光を反射している。メガネをしている観客は、メガネをしていない観客以上に「見ること」を強く想起させはしないだろうか。そも、メガネとは、『涼宮ハルヒの憂鬱』では当初、長門を表象するアイテムであったが、途中で長門はメガネを外してしまう。見るための道具であるメガネを長門が外すということは、すなわち監視者・傍観者ではなく、より積極的に関わりを持つ立場への変容を意味しうる。第16話の感想で関連したことを書いたので、そちらも参照してもらいたいが、ともかく、メガネは見る道具なのであり、それは行為・制作からはかけ離れている。行為・制作は隔たりを消してしまう。逆に言えば、隔たりがある以上は行為・制作は不可能である(ものに触れるには距離がゼロでなくてはいけない)。
メガネの観客たちはフィクションと現実との隔たりを強調すると同時に、行為・制作しない人間をも表象しているのかもしれない。つまり、前回における谷口のような人間を。そして、それはまさに我々のことなのである。
◆暗闇はいかにして晴れるのか?あるいは映画はどのようにして終わるのか?
やや腑に落ちないことがある。
画面に暗い影が落ちる回だった。この影はキョンの迷いなのかもしれない。喫茶店でのシーンから影は現れる。そして、みくる、長門とのシーンでも影は落ち続ける。深い闇が画面に垂れ込める。なんという重苦しさ。各人物の言い分が食い違っていることへの、キョンの不信・迷いとしての闇と見てもおかしくないだろう。そして、その影は長門との会話後に消えてしまうが、Bパートにおいても再び現れる。歩道橋上のキョンと古泉は、夜の闇につつまれ、また顔には影が落ちている。ここでもキョンに迷いが生じていると見ることは出来る。そして、上映当日の朝の部室・校内もほの暗い闇に包まれているが、この場面では、知らぬ間に完成していた映画に対するキョンの不信として見ることができるだろう。しかし、キョンの迷い・不信はこの挿話の終わりにはすっかり消え去ってしまっているようなのである。どのようにして、キョンの迷いは消えたのか。
腑に落ちないこととは、つまり、このことである。どのようにして、闇=迷いが消え去ったのか、今回の挿話を見ていてよく分からなかった。誰が本当のことを言っているのか明らかになっていないにも関わらず、ラストシーンでは、キョンはすっきりした顔でデートしているのである。けれども、この闇を映画館の暗闇と関係づければなんとか説明できるのかもしれない。映画館の暗闇は映画が終われば消えてしまう仮初のものだ。そして、キョンの闇=迷いもまた、映画制作を通して顕在化してきたものであり、映画が終われば消えてしまう、そのようなものとして考えることもできるのかもしれない。
◆楽しいアニメ
今期は『宙のまにまに』『かなめも』『大正野球娘。』『GA 芸術学科アートクラス』などをとりわけ楽しんでいるのだが、それらの感想を書く気にはあまりならない。習慣の問題かもしれないが、『ハルヒ』は感想を書く気になる特別なアニメなんだよなー。