声オタは未来に生きている。ブログにはいつまでも「素敵!!!」と書く。

ktzawaさんにはかなわないなあ。ktzawaさんは素敵です。
応答というほどでもない、ちょっとしたコメントですが、長くなったのでトラバします。
http://d.hatena.ne.jp/kt-2007/20091017/1255783967

声優ユニットを通して、声優を浮かび上がらせようとする試みであることは理解できました。具体的なところは良く分からないので、またお話を聞かせてください。メディア論的なアプローチの仕方であるとか、歴史化することの意義とか。特に前者。ktzawaさんも書いておられますが、声優ユニットはメディア上で活動するものだと考えられれます。そも、声優さんの活動はメディア上でしか展開されないのだから、いわば声優さんはメディア的な存在者であって、メディア論的なアプローチが必要不可欠なはずなのに、これまであまりその領域が扱われてこなかったんじゃないのかなあという気がしてなりません。ほとんど知識がないのでアレですが。
(蛇足ながら。声優さんはメディア上にしか現れないのですから、声優さんが中央線で男といちゃいちゃしている現場を目撃することは絶対にないです。声優さんが無媒介的に現れるわけがないです。そんなオカルトありえません。)

「奥にある」とは慧眼だなあと思いました。「手前にある」と言ったのは迂闊だったと反省しています。そも問題は、プラトンの「探求のアポリア」にまでさかのぼるように思います。知っていることも知らないことも、人間には探求できない。知っていることならば探求する必要がない。知らないことならば知らないのだから探求のしようがない。それでもなお、私達には探求することが可能であるように思われます。それは、おそらく私達が探求しようとしているものについて、漠然としたかたちで知っていて、それを手がかりにしているからではないでしょうか。漠然とした知を基にして、問いをたて、その問いを経ることで、知識を少しずつ仕上げ、そしてまた同時に問いをも仕上げていく。その往還の運動が探求あるいは問うということではないでしょうか(『存在と時間』のハイデガーなんかは多分そういうやり方をしているんじゃないですかね)。ならば、声優と声優ユニットとをめぐる問いかけは、どちらが手前か奥かということは言えなくなる。かもしれない。まあそれはいいのですが。

アニメに声を当てる、歌を歌う、ラジオに出演する、写真集を出す、etc、etc、それらは全て横並びであって、そういう仕事をしている人達であるところの、声優存在に関して語っている訳です。

私の文章があんまり良くなかったのかもしれませんが、多分、この辺の理解には食い違いはないかと思います。例えば「声優はヴィジュアルに出るな」とか、そういうことを言う人たちを仮想敵とて念頭におきつつ、「ヴィジュアルに出る」という活動もまた声優さんの活動として不可分に在るものだということを書こうとしていました。「タレント」という言葉はあんまり使わないほうがいいかもしれませんね。

一つ付け加えると、思想文化系の学問が私のバックボーンになるほどには私は勉強していません。残念ながら。哲学にもいろんな探求法があると思うので、方法については私にはなんとも言いがたいのですが、ただ、哲学的な問いは「問うとは、答えるとはどういうことか」まで問う、とメルロ=ポンティは言ったそうで、まあ、そういう面倒な性格は私にもあるのかもしれません。