『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』第四話「 梅雨ノ空・玻璃ノ虹」感想

雨、風、雲、光といった自然現象で、突出を創出する巧みさがすばらしいなあと思うのだが、どうしても消えない隔たりを感じる。よく出来すぎているから嫌いだ、なんて言うのは稚気でしかないだろうが、掛け値のない感情を言い表してもいるわ。


◆雨・雲
 冒頭から雨が降っている。灰色の雲が垂れ込めて、画面は薄暗い。雨に打たれる鉄橋や岩石も、非常に重苦しいもののように感じられる。この挿話は雨を真っ当に(?)、何か負の代理-表象として描いているように思われる。日常においても雨が降っていると気が重く感じられるものだが、その日常における雨の意味が、作品を見る上でも同じ意味を担う。雨の日の「重さ」が、不快ですらある拙い喇叭の音と、戦車修理の不首尾に、のしかかってくる。その三者は単に並行して存在しているのではなく、循環する関係の上に存在しているようにも見えるのが面白いところだ。とくに喇叭の不味さと修理の失敗は、見ようによっては、互いに影響しているようにも見えるようにつながれている。二つの問題は独立していない。だから、彼方さんの問題が解決すると、乃絵留さんの問題も解決するのである。雨を用いた演出自体は珍しいものではないかもしれないが、それが挿話の物語全体に重くのしかかり、そしてそれが最後には鮮烈なまでの雲と光の運動=情動を披露して消えていく、そのシークエンスの美しさは否定できるものではない。
 雨に濡れて、水がじわじわとしみこんでくる紙袋の描写も、とても好みだった。水の厄介さはその浸潤性にある。濡れると気持ち悪いのである。乃絵留さんの気持ちが、じわじわと水がしみこんでくるように、あまりよろしくない感情に侵食される様をまざまざと想像できて、それがすごく楽しい。


◆齟齬
 彼方さんと乃絵留さんの二人が、今ひとつ噛み合わない様子がこの挿話ではしばしば描かれていた。二人で出かけた車上での会話では、乃絵留さんは彼方さんの言葉に即座には反応しない。妙な冗談を言うおじさんのいる雑貨屋(?)では、二人は別々にフレーミングされ、彼方さんが乃絵留さんの方へと「越境」しようとすると、おじさんが邪魔に入る。車に荷物を積み込もうとしている場面では、乃絵留さんの言葉は、子供がぶつかってくることで遮られてしまう。また、乃絵留さんが会話の途中で眠ってしまうこともあった。そのほかにも齟齬と取れる場面はあったかもしれない。雨の重苦しさと二人の間の齟齬を冒頭から延々と見せつけられて、視聴者はすごく不安な気持ちになるのではないだろうか。その不安が、一挙に解決されるところに、この挿話の魅力があるように思う。


◆職人と手
 前述した二人の間の齟齬は、反復される二人が上手く手を繋ぐことのできない様子の描写でも、知ることができる。その齟齬は最終的には埋められ、二人は自然に手を触れ合わせることが出来るようになる。けれども、その帰結は、あいだにワンクッション置かなければ、やや唐突にも見える。どうして二人が打ち解けることができたのか。そのワンクッションが、「職人」なのではないかと思う。職人とは、「道具の道具」と言われる手を使い作業し、製作するものであろう。職人と手は結びついている。彼方さんと乃絵留さんは共に職人であることによって、手を結ぶことができるのではないか。
 この事態を、彼方さんの職人芸的音感で、乃絵留さんの職人的問題が解決されたことによるものだと考えても、全然かまわないわけだが。


◆光と音、あるいは「光の旋律
 よい光学センサーを耳で選別するというのは、なんとも象徴的なお話だと思う。視覚と聴覚、光と音の混淆が描かれているからだ。そして、この挿話ではあからさまに「光の旋律」が描かれてもいるのである。彼方さんの音は、雲をかき消して、光を導きいれる。その反復の連鎖が楽しく、また美しい。
 

◆ガラス――時間を留めようとする努力
 水と過去の結びつきについて、私は第一話の感想から延々と言い続けてきたのだが、それにも少し飽きてきたし、この挿話では水(主に雨)は既述のように、重苦しさの表象である。そこで、ここではガラスと水との類縁性について、少しだけ考えてみることにしよう(それもすでに一話感想で書いたのだが)。ガラスでイルカを象るとは、どういうことなのか。既に海が失われ、イルカは絶滅してしまっていると言われる。ならば、イルカを象ることは、どうしてもノスタルジックな性格を持つことになってしまう。そして、その像の材料がガラスであることに、何よりも注目せねばならない。ガラスは両義的な性格をもち、液体でもあり固体でもあると言えるような物質である。考えようによっては、ガラスが、そのままでは流れ出てしまい形を失ってしまう液体を、なんとか失わないように保持しようとする努力そのものであるようにも思えてくる。思えば、時間は古来から川の流れに例えられてきた。時間は流れる。流れて、消えていってしまう。そのような時間が具体的な形をとったものが、海とイルカである。既に失われてしまったイルカを象ったガラスの像は、まさに時間を結晶化したものなのであり、過去をなんとかして現在へと繋ぎとめようとする努力なのである。少なくとも、このように考える余地はあるように思う。
 この作品は、失われた旧時代へのノスタルジーに貫かれているように、私には思えるのだが、それがどのように「破産」するのか。見届けたい。いや、破産などしないのかもしれないが。


◆道具
 ちょっと気になった。道具はそれを使う人によって違う帰結を生む、喇叭も戦車もそうだろう。そのように言われる一方で、ガラス職人のおじさんは、ガラスがなりたいようにしていると言う。そして、彼方さんも、音が鳴りたいように響かせることで、喇叭を使いこなせるようになる。これは、人が道具を使うのではなく、道具によって人が使われるという事態ではないのだろうか。人と道具という主客の構図が崩壊し一体化しているのだとも言えそうだが、どうなのだろう。つまり、もしかすると、それを操る人によらずに、戦車が大暴れする可能性もあるのではないのかなあ、と。…ああ、そうなるのかな。