コミケ情報:谷部『声ヲタグランプリvol.4』のお手伝いをしました

足を引っ張っているだけな気もしますが。
谷部id:tani-buから引用して、紹介しておきます。

タイトルのとおり、谷部は今回も無事当選することができました。

配置ですが、

火曜日 東地区 "ポ" ブロック 38b

となっております。何卒よろしくお願いいたします。

今のところ、新刊声ヲタグランプリvol.4と、既刊vol.3の頒布を予定しております。

新刊の特集は

【特集1】C77記念 俺たちの好きな声優77人

【特集2】堀江由衣

【特集3】声優顔座談会

というラインナップとなる予定です。

だそうです。買わないほうがいいと思いますが買ってください。

私は今回、4本書きました。

・『GA 芸術科アートデザインクラス
・『ファイト一発!充電ちゃん!!』
・『南條愛乃
堀江由衣特集 ロリほっちゃん


卒論とかぶって、考える時間が取れなかったので、今まで以上にてきとーなことを書き連ねてあります。
興味関心の中心はあんまり変わってなくて、なので書いてあることもあんまり変わってないですきっと。
書きながらいろいろ考えてしまって、吐き出さないと死んでしまいだけれども、今は時間がない。あれ、死ぬんじゃね?

『NARUTO疾風伝』第138話「終焉」感想:未来を再現すること、過去が過去であること。

一話のあいだに、3度も雨の降るアニメはなかなかない。
三度、反復される雨は過去の呼び水だったのかもしれない。雨が死を呼び戻し、死を準備する。
サスケはイタチの死を「再現」すると言う。けれども、イタチの死はいまだかつて来たらぬものである。再現できるものは、既に過ぎ去ってしまったものだけである。サスケの言う「再現」は、未来の再現というパラドックスを抱え込んでいる。そして、その逆理を突き破らんとするかのように、画面には、雨をはじめとして、過去が氾濫するのである。
過去の逆流。それは、サスケとイタチの可逆性へとつながる。サスケが「再現」しようとする死。もし、言葉の意味を厳密にとらえようとするならば、再現しうる死を過去に求めねばならない。突き当たるのは、サスケの両親の死であり、一族の死である。肉親であるイタチを殺すということは、イタチの肉親殺害を再現することに結び付く。サスケはイタチを自身により再現することになる。幼いサスケが覗き込んだ水面には自身の顔が映り込んでいたが、それはイタチへと移ろう像であった。二人の関係は可逆的である。冒頭のふらつきながら歩くサスケと、サスケに向かってふらつきながら歩くイタチもまた重なりあう。そも、写輪眼が交換可能であるのも可逆性のゆえだろう。殺す殺される関係の逆転も数え入れても良いだろうか。そのような可逆性、そのスイッチが、あるいは雨なのかもしれない。レイアウトでは、二人のポジションは一貫して左右に振り分けられていて、可逆的でないのではあるが。
過去ということで言えば、この国の最も古い過去すらも、ここで再現されてしまっていることをいちおう指摘しておこう。その太古からの逆流がある一方で、過去とは、やはり決して取り戻せないものでもある。イタチが死に際に呟いた言葉はおそらく「許せサスケ」という、かつて兄弟間で交わされた言葉だと考えられるが、その言葉には音がない。決して届かない。現在に回収不可能な言葉なのである。
いつも俺の言葉は、言うべきことの輪郭線に届かなかったりはみ出したりしてばかりなのだが、面白い回だったと言っておけば、まあ。

宮崎羽衣 FIRST LIVE TOUR 2009 〜UI1〜 に行きました。

ミクシイの日記にも書いたのですが、大事なことなので、ここにも書いておきます。
行きました。楽しかったです。
追加公演も決まったそうです。ぜひ参加したいです。
おわり。

『とある科学の超電磁砲』第3話「ねらわれた常磐台」感想:水と停止

4話が私の好きな感じだったので、その感想を書こうかと思ったのだが、どうも曖昧でダラっとした文章になりそうだったので、3話の感想で弾みをつけてみようかと。
これを指摘している人は多いかもしれないし、全然いないかもしれないが、このエピソードにおいては、「水」と「停止」あるいは「中断」が結びついていたように見えた。停止と言っても、それは佐天さんのそれに限られるのだが。
一度見た記憶だけで書いているので勘違いがあるかもしれない。冒頭、雨の降る中をバスが走っている。バスの停車ボタン「止まります」。ここで、水と停止の結びつきが予告されているようにも思える。雨それ自体は、アニメにおいても、しばしば停止・停滞の記号として機能するように思われる。しかし、ここでは、雨はいったん二人を足止めするも、すぐに止んでしまい、妨げることがない。だが、やはり「水」は停止を惹起するのではないか。バスを降りて、改札のようなものをするっと抜けた佐天さんと初春さんは噴水のある広場のようなところで立ち止まるのだが、その広場で、佐天さんは水溜りに足を滑らせ、転倒してしまう。この転倒を私は「停止」と呼んでいる。ここでは、噴水の「水」もしくは「水」たまりと「停止」が連関しているように私には見える。諸々を経て、ケーキ屋さんに入ると、佐天さんは何故だか急にお手洗いに行ってしまうのだが、そこで二度目の「停止」が発生する。彼女はスタンガンによって気絶させられてしまうのだ。この決定的な「停止」の場面でも「水」は強く存在している。蛇口から「水」が流れ続けているのだ。こうして、二度、「水」と「停止」は結びつく。ように見える。
だが、これだけでは面白くもなんともないかもしれない。このエピソードにおいて、もう一度だけ佐天さんは「停止」させられるように思われる。そして、その「停止」を導くために、その前の二度の停止があったと考えることで、多少の面白みを感じることが可能になるのかもしれない。その「停止」とは。すなわち、佐天さんの復讐の「停止」である。
佐天さんは復讐できない。それは、重福省帆さんの眉毛が佐天さんが手を加えられないほどどうしようもないものだからかもしれないが、それだけではない。佐天さんは「水」を前にして「停止」してしまうのだ。ここでの「水」とは重福さんの涙である。いや、往々にして人は涙を前にして停止してしまうだろう。けれども、その凡庸さを少しだけ潜り抜けるためのルートとして、その前の二度の停止があったと考えてみても良いのではないだろうか。それでも別に面白くないかもしれないけども。少なくとも、そのようなルートが開かれているように見えることが重要なんじゃないの、と思う、私は。
なぜ「水」なのかという疑問はある。佐天さんのフルネームは佐天涙子、というだけでは不十分か。
4話感想に続くかもしれません。終わり。

声オタは未来に生きている。ブログにはいつまでも「素敵!!!」と書く。

ktzawaさんにはかなわないなあ。ktzawaさんは素敵です。
応答というほどでもない、ちょっとしたコメントですが、長くなったのでトラバします。
http://d.hatena.ne.jp/kt-2007/20091017/1255783967

声優ユニットを通して、声優を浮かび上がらせようとする試みであることは理解できました。具体的なところは良く分からないので、またお話を聞かせてください。メディア論的なアプローチの仕方であるとか、歴史化することの意義とか。特に前者。ktzawaさんも書いておられますが、声優ユニットはメディア上で活動するものだと考えられれます。そも、声優さんの活動はメディア上でしか展開されないのだから、いわば声優さんはメディア的な存在者であって、メディア論的なアプローチが必要不可欠なはずなのに、これまであまりその領域が扱われてこなかったんじゃないのかなあという気がしてなりません。ほとんど知識がないのでアレですが。
(蛇足ながら。声優さんはメディア上にしか現れないのですから、声優さんが中央線で男といちゃいちゃしている現場を目撃することは絶対にないです。声優さんが無媒介的に現れるわけがないです。そんなオカルトありえません。)

「奥にある」とは慧眼だなあと思いました。「手前にある」と言ったのは迂闊だったと反省しています。そも問題は、プラトンの「探求のアポリア」にまでさかのぼるように思います。知っていることも知らないことも、人間には探求できない。知っていることならば探求する必要がない。知らないことならば知らないのだから探求のしようがない。それでもなお、私達には探求することが可能であるように思われます。それは、おそらく私達が探求しようとしているものについて、漠然としたかたちで知っていて、それを手がかりにしているからではないでしょうか。漠然とした知を基にして、問いをたて、その問いを経ることで、知識を少しずつ仕上げ、そしてまた同時に問いをも仕上げていく。その往還の運動が探求あるいは問うということではないでしょうか(『存在と時間』のハイデガーなんかは多分そういうやり方をしているんじゃないですかね)。ならば、声優と声優ユニットとをめぐる問いかけは、どちらが手前か奥かということは言えなくなる。かもしれない。まあそれはいいのですが。

アニメに声を当てる、歌を歌う、ラジオに出演する、写真集を出す、etc、etc、それらは全て横並びであって、そういう仕事をしている人達であるところの、声優存在に関して語っている訳です。

私の文章があんまり良くなかったのかもしれませんが、多分、この辺の理解には食い違いはないかと思います。例えば「声優はヴィジュアルに出るな」とか、そういうことを言う人たちを仮想敵とて念頭におきつつ、「ヴィジュアルに出る」という活動もまた声優さんの活動として不可分に在るものだということを書こうとしていました。「タレント」という言葉はあんまり使わないほうがいいかもしれませんね。

一つ付け加えると、思想文化系の学問が私のバックボーンになるほどには私は勉強していません。残念ながら。哲学にもいろんな探求法があると思うので、方法については私にはなんとも言いがたいのですが、ただ、哲学的な問いは「問うとは、答えるとはどういうことか」まで問う、とメルロ=ポンティは言ったそうで、まあ、そういう面倒な性格は私にもあるのかもしれません。

声オタは未来に生きてんなー。でも、未来に生きるその前に。

声優ユニット史を語ること、その手前にまだ問題が、決して片付かない問題が残っている気がする。
声優さんはアニメで役者をするだけのお仕事ではない。声優さんは歌を歌うし、ラジオに出演するし、写真集を出す。声優さんのお仕事が、現在では、そのような「タレント活動」を含みこんでいることは否定しがたい。けれども、声優さんは決定的にタレントさんとは異なっているはずだ。声優さんは単なるタレントさんではないはずだ。俺達はただのタレントさんに向ける興味とは全く異質の興味を声優さんに抱いているはずだ。例えば、「ほっちゃんのパフォーマンスが好きなだけで、声優じゃなくても別にいいですよ」とは言えないはずだ。これはどうしてなのか。声優とは何なのか。「何」という問いは不適切なのかもしれない。声優とは誰なのか。ユニット活動という声優さんの極めてタレント的な側面を語りだす前に、俺達にとって声優とは誰/何なのかという根本問題を問い返さなくてはならない気がする。この問いはあまりにナイーブなものかもしれないが、声優ユニット史のためには、少なくとも「声優ユニットとは何か」は問わなければならないだろう。ならば、遡及的に声優概念への問いも避けがたいものになるのではないだろうか。


みたいなことをid:kt-2007さんに話したんだけども、俺は冬コミに何か書く気は全くないんですよね。問いとして素朴すぎるし、あんまり意味のない問いかもしれない。でもなあ。