涼宮ハルヒの憂鬱第24話「涼宮ハルヒの溜息V」感想と妄想

◆結び合えないこと
前回第23話の感想の末尾で、私は「一体何が嘘で何が本当なのか」分からないというようなことを書いたが、今回は、各登場人物の言い分がことなり、ある意味では虚・実の決定できない挿話となっていた。しかしながら、今回の主題は虚・実というようなところにあるのではなく、むしろその手前の「異なり」にあるように思われる。今回の挿話においては、様々な事柄が食い違い、乖離し、結び合えない。それら一つ一つの事例を殊更に指摘する必要はないだろう。それらは映像の上でもセリフの上でも如実に現れているように私には思われる。
◆結び合うこと
しかし、そのような状況の中にあって一致するように思えるものがあるから面白い。何と何が一致しているように思えるのかといえば、それはキョンハルヒが、である。手始めに、ハルヒ以外の4人が喫茶店に集まるシーンを見てみよう。この欠席裁判めいたシーンにおいて、キョンは「ハルヒはどうだ?」内的に独白しているように思われる。ここで、キョンハルヒならばどう考えるのかと思いを巡らしている、いわばハルヒとの想像的同一化を試みているようにも受け取れる。また、夜の歩道橋の上で男子二人が語らうシーンでは、古泉にとっては「愛すべきキャラクター」としてハルヒキョンが一致していることが証言される。そして、キョンハルヒが二人で映像編集をするシーン。共に作業をしているという意味でも二人は一致しているが、二人は映画制作上の役割においても一致しているようにも思われる。キョンはエフェクトを付ける作業をしているようだが、その前にカッティングの作業もしていただろう(キョンが編集をすることは以前の挿話で仄めかされていたように思う)。もしキョンに最終編集権があるとすれば(どうやらハルヒが実際に作業をしていないのだからそうだろう)、キョンはただの編集者ではなく、(ハルヒの役割である)監督やプロデューサーに近い役割を果たしていることになる。第22話の感想で、私は「監督キョン」の可能性について語ったが、それはあながち妄想ではなかったのだろうか。第23話においてキョンハルヒに対して「この映画は絶対成功させよう」と言ったそのとき、二人の一致が始まったのは確かであろうし、その一致とはキョンの監督化だったのだと言えるのかもしれない。
◆結び合って、それで。
ハルヒキョンは、(あまり適切な事例を挙げられなかった気もするが)一致しているとみなしうる。そのように思って見ていると、なかなか楽しいシーンがある。ラストシーン、すなわちキョンハルヒがデートをしているシーンだ。このシーンではキョンの話そうとすることが、ハルヒに先取りされる。つまり、ある意味では、二人は一致していると言える(一致しているがゆえにデートをしているのかもしれない)。圧巻なのは、二人それぞれの真正面からのミディアムクロースアップショットが何度か切り返されるシークエンスだ。そこでは二人は完全に一致しているように見えるし、聞こえるのである。二人は、構図的にも一致し、アクションでも一致し、セリフでも一致するのだ。けれども、その一致は、一致でありながら、次第に不一致へと滑り落ちていってしまう。不安なほどにリズミカルな切り返しの反復は、ついにハルヒの怒りによって打ち破られる。そもそも最初から二人は接近してなどいなかったかのように。それでもなお、ハルヒは外で待っている…。
上手く書けていないのだけれど、このシークエンスは俺にはとても楽しく思える。デートしているというだけでも割と楽しいが、それだけではないように思える。
◆不気味なメガネたち
隔たりが今回の主題の一つだったのではないか、と上で述べたが、その中でもとりわけ「フィクションと現実の隔たり」が重要だったのかもしれない。それはそのまま、テレビアニメとテレビアニメを見る我々との隔たりでもある。ハルヒたちの映画の観客が描写されるのは2カットだけであるが、その観客たちは何故か、確認できる限り全員メガネをしており、彼らのメガネは不気味にスクリーンの光を反射している。メガネをしている観客は、メガネをしていない観客以上に「見ること」を強く想起させはしないだろうか。そも、メガネとは、『涼宮ハルヒの憂鬱』では当初、長門を表象するアイテムであったが、途中で長門はメガネを外してしまう。見るための道具であるメガネを長門が外すということは、すなわち監視者・傍観者ではなく、より積極的に関わりを持つ立場への変容を意味しうる。第16話の感想で関連したことを書いたので、そちらも参照してもらいたいが、ともかく、メガネは見る道具なのであり、それは行為・制作からはかけ離れている。行為・制作は隔たりを消してしまう。逆に言えば、隔たりがある以上は行為・制作は不可能である(ものに触れるには距離がゼロでなくてはいけない)。
メガネの観客たちはフィクションと現実との隔たりを強調すると同時に、行為・制作しない人間をも表象しているのかもしれない。つまり、前回における谷口のような人間を。そして、それはまさに我々のことなのである。
◆暗闇はいかにして晴れるのか?あるいは映画はどのようにして終わるのか?
やや腑に落ちないことがある。
画面に暗い影が落ちる回だった。この影はキョンの迷いなのかもしれない。喫茶店でのシーンから影は現れる。そして、みくる、長門とのシーンでも影は落ち続ける。深い闇が画面に垂れ込める。なんという重苦しさ。各人物の言い分が食い違っていることへの、キョンの不信・迷いとしての闇と見てもおかしくないだろう。そして、その影は長門との会話後に消えてしまうが、Bパートにおいても再び現れる。歩道橋上のキョンと古泉は、夜の闇につつまれ、また顔には影が落ちている。ここでもキョンに迷いが生じていると見ることは出来る。そして、上映当日の朝の部室・校内もほの暗い闇に包まれているが、この場面では、知らぬ間に完成していた映画に対するキョンの不信として見ることができるだろう。しかし、キョンの迷い・不信はこの挿話の終わりにはすっかり消え去ってしまっているようなのである。どのようにして、キョンの迷いは消えたのか。
腑に落ちないこととは、つまり、このことである。どのようにして、闇=迷いが消え去ったのか、今回の挿話を見ていてよく分からなかった。誰が本当のことを言っているのか明らかになっていないにも関わらず、ラストシーンでは、キョンはすっきりした顔でデートしているのである。けれども、この闇を映画館の暗闇と関係づければなんとか説明できるのかもしれない。映画館の暗闇は映画が終われば消えてしまう仮初のものだ。そして、キョンの闇=迷いもまた、映画制作を通して顕在化してきたものであり、映画が終われば消えてしまう、そのようなものとして考えることもできるのかもしれない。
◆楽しいアニメ
今期は『宙のまにまに』『かなめも』『大正野球娘。』『GA 芸術学科アートクラス』などをとりわけ楽しんでいるのだが、それらの感想を書く気にはあまりならない。習慣の問題かもしれないが、『ハルヒ』は感想を書く気になる特別なアニメなんだよなー。

涼宮ハルヒの憂鬱第23話「涼宮ハルヒの溜息IV」感想

前回第22話の感想で「何やってるんだか全然分からない回だった」と書いたが、今回、その原因が明らかになったのではないだろうか。すなわち、キョンの自身への無理解のゆえに、我々もまた理解できないでいたのだ。大抵の場合、アニメの主人公は視聴者の「乗り物」である。我々は主人公という乗り物に乗ってアニメの物語世界を楽しむ。我々は、主人公が行くところへ行き、目にするものを目にし、耳にするものを耳にする。それゆえに、主人公が気づかないことには気づけない(ことが多い)。とりわけ、この『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品は、キョンと視聴者の同一化が強く起こる。POVショットとヴォイスオーバーはハリウッドの発明した同化装置の主たるものであるが、その二つがこの作品では多用される。キョンと同一化した視聴者にとっては、キョンの無理解がそのまま作品の無理解へとつながってしまう可能性がある。Bパートの前半部において、キョンはやたらとハルヒに腹を立て、それが原因で二人は対立してしまうけれども、キョンが自身が何故怒っているのかということを理解していないがゆえに、我々は見ていて「わけが分からない」と思うことになる。しかし、古典的ハリウッド映画のお約束では、主人公は映画の終わりまでには、必ず自らを理解することになる。主人公が自らの過ちに気づかないまま終わる古典的ハリウッド映画はあまりない(らしい)。それと同様に、最終的には、キョンもまた自らを理解し、過ちに気づく。そして、我々視聴者はこれまでのキョンハルヒの齟齬に理由を見つけることができ、ホッと胸をなでおろす。
キョンが自らを理解するシーンでは、キョンは箸に付着した米粒を凝視する。この米粒はキョンであろう。前々回第21話の感想で述べたが、白はキョンを代表する色でありうるし、また多くの白米のなかに埋没するちっぽけな米粒はキョンを思わせるに十分だ。その米粒をキョンが見つめるということは、自らを見つめることであり、反省(reflection)あるいは客観視を意味しうるだろう。キョンは自らを見つめ直すことで、自身に気づく。
我々はキョンと同一化しているため、そして画面もまた非人称的ではなく幾分キョン視点的であるため、前回や今回のハルヒの行いが暴虐に見える。けれども、客観的に見て、これまでのハルヒの行い(例:みくるをバニーにしてビラ配りをさせる等)と比べて、特に暴虐的かというとどうだろうか。これまでとあまり変わっていないような気もする。「間違っていたのはハルヒじゃない!キョンのほうだ!」と叫んでもいい。不当にもキョンに弾劾されるハルヒであるが、彼女は健気なことにキョンを待ち続けている。ハトをキョン色に塗り替えてまで。桜色に世界を染めてしまうハルヒ以上に、キョン色を望むハルヒが可愛いとか言ったら俺は殴られるのか。
映画撮影という虚構内虚構が関わってきて、一体何が嘘で何が本当なのか段々分からなくなって混乱してくるエピソードで、面倒くさい。他にも書いておきたいことがあった気もするが、出かけなくてはいけないのでこの辺で投げっ放す。とりあえず次回が楽しみです。

9月になってしまいました。

残念なことに、8月は無事に過ぎ去り、9月になった。もういちど8月をやり直したいと思う。全然、卒論の準備が進んでいないからだ。しかしながら、仮にもう一度8月をやり直せるとしても、どうせ同じ怠惰な8月を繰り返すだけなのではないかとも思える。結局、8月1日の俺は変わらないのだから、原因と結果の連鎖からは逃れられないのではないか、と思う。そこで、俺たちが『涼宮ハルヒの憂鬱』における一連の『エンドレスエイト』を見ていて気づかされるのは、どうやらハルヒたちの世界には自由が存在しているのではないだろうか、ということだ。ループの端緒における条件は常に同一だとして、それにもかかわらずキャラクター達の行動は、長門有希の証言によれば、微妙に異なり、同一ではない。
ヒュームの因果論やカントの第三アンチノミーなど、思考の材料は哲学史上にごろごろ転がっているが、とりあえず面倒なので、簡単なところを考えてみる。俺が二者択一の選択をしなければする必要に直面したとしよう。仕方がないので、俺はどちらか片方を選択する。だが、このとき俺には、もう片方を選択することも可能だったのだろうか。そのように考えることは、日常においても、決して珍しいことではないだろう。この問いに対して、さしあたり二つの回答がありうるように思われる。まず一つは、十分に躊躇い熟考したために選択が可能になったと主張する自由を擁護する回答、そしてもう一つは、その選択を為す何らかの理由があったから選択が為されたのだと主張する自由を棄却する回答である。素朴に考えると、どちらも正しそうな気がする。だが、これらの回答に対して、どちらも間違っていると主張した哲学者もいた。例えばベルクソンだ。
いや、実はそんなことはどうでも良いことである。確かに『エンドレスエイト』をベルクソンの自由論と絡めて、云々することはできようが、それはアニメを語ることではない。ただベルクソンを語ることでしかないだろう。そんなことは別に俺がするべきことではない。このエントリの目的は、俺が『ハルヒ』を見る日である金曜日に、俺が東京を離れてしまって『ハルヒ』が見れなくて、感想が書けないので、代わりにちょっとしたメモを残すことだった。以下が本題となるのだが、それもまた実はアニメには全く関係がない。
科学(おそらく脳科学が念頭に置かれているだろう)が発達してきて哲学(主に認識論だろう)はもうピンチです要らなくなってしまうかもしれません、などと言う哲学者が、本気でそう思っているのかは分からないが、ときどき居る。一方で、いくら科学が発達しようが哲学は不滅です、と声高らかに叫ぶ哲学者もときどき居る。俺は哲学者でもなんでもないけれど、やや、後者にシンパシーを感じている。最近、ベルクソンの『創造的進化』を読んでいたら、この書物全体がそういう雰囲気に包まれているのだが、とりわけ巻末の解説に、よくある感じの分かりやすい哲学賛美的な文章が乗っけられていて、なんだか良い気分になったので、そのことをメモしておこうかなと思った。少しだけ引用しよう。

生命あるもの、いいかえれば生物は、我々の経験によれば、この地上に、いたるところに、無数にある。鳥も、けだものも、虫も、魚も、草も、肝、すべてこれ生物である。(中略)生物学は、あらゆる生物が示す生命現象を研究対象とする自然科学の一部門である。しかし、生物学は「生物の生とは何か?」「生命現象の生命とは何か?」を問うことはしない。(中略)あらゆる生物、あらゆる生命現象を通じて、それらが生物といわれるときのその「生」、それらが生命現象と呼ばれるときのその「生命」とは何か?生物学はそれには答えてくれない。なぜならそれは哲学の問題だからである。
松浪・高橋訳『ベルクソン全集4』白水社1966年 解説430頁

ベルクソンなんか読んでいないで、卒論の準備をすればよかったなあと思います。それだけです。今から俺は福井に向かいます。おわり。

ベルグソン全集〈4〉創造的進化

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進化論の5つの謎―いかにして人間になるか (ちくまプリマー新書)

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涼宮ハルヒの憂鬱第22話「涼宮ハルヒの溜息3」感想:増大する「擦れ違い」の行方は

何やってるんだか全然分からない回だった。ハルヒがやたらとみくるを虐めていて、キョンはみくるを守ろうとしていて、なんだかその対立がひどく深刻な感じに描写されるのだけれど(EDのクレジットでまで二人はずれている)、この二人のズレは一体どこにたどり着くのか。分からんなあと思いつつ書く。そこで、ふと気づいたのだが、分からんなあと思ったら次の回を待てばいいんじゃないか、というか分からんなあという思いが次の回を見る原動力なんじゃないか、俺が書こうとしていることは全然意味がないんじゃないか。
涼宮ハルヒの暴行と略奪と陵辱
ハルヒの奇行が目立つ回だったが、とりわけハルヒのみくるちゃんに対する暴虐ぶりは際立っていたように思う。普段の延長と言えばそうかもしれないが、やはり逸脱しているように見える。ハルヒはみくるをメガホンで打つし、みくるのお蕎麦を勝手に食べるし、みくるを恥ずかしい格好にして市内を引きずり回すし。何の恨みがあってそんなことをするのか、全然分からない。それは不安をかきたてられるほどに、わけがわからない。我々は答えを求めて、画面を見続けてしまうけれども、答えははっきりとはそこに無いように思う。
◆アバンに現れるズレ
一分にも満たない短いアバンだが、ここだけでキョンハルヒのズレを顕著な形で認めることができる。ハルヒのセリフ「みくるちゃんをいてこましちゃいなさい」と、キョンのセリフ「朝比奈さんを痛めつけるようなことは許可できん」との間には、明確に対称関係があるだろう。アバンで示されるこのズレが、今回のエピソードを支配しているようにも思われる。
ハルヒがみくるに暴虐を働く一方で、キョンはそれを防ごうとしている。そのズレが、妙に暗い影を落とし、我々を不安にさせる。例えば、キョンがみくるに暴力を振るうハルヒを止めようとするシーンなど、やたらと危うい印象を受ける演出がなされてはいないか。ここまで二人のズレが暗い形で描写されてしまうというのは、どういうことなのであろうか。これだけズレを強調して、何をしようとしているのか。
◆ズレの意味するところ−「エンドレスエイト」を参照しつつ
やや作品から離れてしまうことを危惧しつつ書き進めることにする。ズレの原因であるハルヒの奇行を、欲求不満によるものだと考えてみよう。これは、例えば「エンドレスエイト」において、8月を繰り返してしまうという「奇行」もまたある種の欲求不満によるものだったことから、類推できることである。「溜息」には「奇行→ズレ」という流れが、「エンドレスエイト」には「不満→奇行」という流れがあり、重なり合う部分がある。そこで「不満→奇行→ズレ」という流れを仮想した上で、「エンドレスエイト」を参照して、ズレの意味するところを考えてみる。「エンドレスエイト」においてズレにあたるものは何か?無理のある言い方かもしれないが、「反復に気づかないハルヒと反復に気づき抜け出そうとするキョン」のズレということになろう。このズレあるいは対立は、自足的に8月を繰り返すハルヒキョンという光が差し込むことで解消され、ハルヒの不満も一時的に満たされる。
「ズレとはハルヒの奇行とキョンの抑止の隔たりである」と言ってしまおう。そして「エンドレスエイト」では、このズレはキョンの努力によって解消される。「溜息」における暗いズレもまた同じだと類推することが可能なのではないか。その暗さは、「エンドレスエイト」の悪夢と類比的な暗さなのではないか。
◆「監督キョン」という可能性
ともかく、このズレはこれだけ深刻に描写されたからには、解消されねばならない。どのようにか?それは実際のところ、分からない。だが、その疑問が妄想めいたことを書く原因である。
前回の感想に引き続き「贈与」に注目してみよう。今回、ハルヒキョンに贈与しているのは何か。それはメガホンと椅子である。この二つのアイテムは共に黄色でハルヒを代理していると同時に、監督の象徴でもある。ただ単に荷物を預けただけにも見えるけれども、監督権を譲与しているようにも見える。ハルヒキョンに監督をしてもらいたがっている可能性がここに在る。そして、その可能性が、「エンドレスエイト」での繰り返しを打破したキョンの努力・イニシアティブと重なるものなのではないだろうか。明確な形でキョンが監督をすることはないだろうが、何かが起こらねばならない。これ以上のことは、もはや書きようがないだろう。この辺りでやめておく。
涼宮ハルヒの不満と「溜息」の行方
ハルヒが不満を抱いているとして、それはどのようなものなのだろうか。その不満が引き起こす奇行が、みくるへと向かうものであり、そしてその奇行はキョンの思惑と対立するというところから、なんとなく推測はできるのかもしれない。この不満がキョンの行動によって解消されるとしよう。やはり、何かが起こらねば、ズレは消えないだろうから。
何が起こるのか知りたければ、原作を参照すればよいようにも思うが、そうだろうか?良く分からない。原作小説は5年ほど前に一度だけ読んだ。まだ高校生の頃だった。もはやほとんど覚えていないのだが、原作とアニメの物語内容にかなりの差異があるような気がしていて、アニメは既に独自の終局へと向かっているのではないかと思えてならない。ただの勘違いかもしれないが。
◆まとめ
ただの妄想を書き連ねただけになってしまった。しかし、このズレがどこへ向かうのか、そこに着目せねばならない理由はあると思う。

贈与がどうとか、そんな言葉より、「すれ違い」の一言で済む話だったような。
少し気を利かせるなら、接触を含意させて、「擦れ-違い」とか。いや、どうか。
電子辞書で「すれちがい」を検索して、「すれちがいビーム」という言葉があることを知った。何なのか良く分からないが、ときめくなあ。

涼宮ハルヒの憂鬱 第21話『涼宮ハルヒの溜息?』感想、拒まれる贈与の物語。

あんまり自分としても望ましくない方向性だなコレ。
涼宮ハルヒの贈与は失敗する−第20話に遡って−
第21話の感想を書くにあたり、少し前置きをしよう。第21話についての感想は、第20話『溜息?』の視聴体験と不可分だからだ。さらに言えば、後に続く第23話とも連続しているだろう。私たちは全てが終わってから、修史家のように書き始めるべきなのかもしれない。とはいえ、『ハルヒ』が歴史になってしまう前にしか書けないこともある。何言ってんだ。閑話休題。第21話はハルヒの贈与が失敗するエピソードとしても見られるように思うのだ。正直なところ、この見方は、私自身の共感すらあまり上手く取り付けていないのだが、試みに書いておくことにする。
贈与の失敗は第20話から既に兆している、と考えることが出来なくはないので、そのことについてまず書く。ハルヒキョンにお茶をぶっかけようとするシーンのことである。奇妙なシーンだ。ハルヒが彼女自らお茶を淹れるのも妙だが、エピソード全体との関係を関係を考えても、どこか浮いているように思われる。なんだか分からんが面白くて、気になるシーンだ。何なのだろうか。
ハルヒがお茶をぶっかけようとするが、キョンはそれを制してお茶を飲んでしまう」というふうにシーンを要約すると、すぐさま贈与という側面が見えてくる。これは見えやすい。明らかにハルヒキョンにお茶をプレゼントしている。けれど、これはむしろ、贈与の失敗だとも言える。ハルヒの意図したプレゼントは、贈られる相手自身の手で拒絶されてしまっているからだ。ハルヒの意図はさほど自明ではなく、いくつかの解釈がありえるが、贈与失敗もその帰結の一つだとは言えよう。
涼宮ハルヒの贈り物−第21話に定位して−
「贈与の失敗」という思いつきを胸に抱いたまま、第21話を見てしまう。そういう関心を持ちながら見ていて、最も気になるのは、ハルヒの贈与ではなくみくるの贈与だ。みくるがキョンに(またしても)お茶をプレゼントしようとするが、それがハルヒによって挫折させられる。これもまた多様な解釈がありうるが、ハルヒが周囲の人間にキョンへの贈与を禁止している、と見ることが可能だろう。さらに踏み込んで、ハルヒキョンを独占しようとしている、とまで言ってしまおうか。だが、皮肉にも、彼女自身の贈与もまたキョンには届かないのである。
さて、第21話において、彼女は何をキョンに贈ろうとしているのか?それは、言うなれば彼女自身である。CM撮りの後での部室でのシーンで、ハルヒは、「脚本を見せろ」とキョンが差し出した手のひらに、パシッと黄色い星をたたき付け、「全部こんなかにある」と言う。「こんなか」とはハルヒの頭の中のことである。整理しよう。脚本という贈り物(無理があるかな)を要求するキョンに対して、ハルヒは自らを表象する色である「黄色」の星をキョンに贈る。それは自らを委ねることであると解釈することが不可能ではない。そして、同時に、キョンにも自分に身を委ねることを要求してもいる。しかし、このハルヒの提案する相互に贈与しあう関係は、キョンによって拒絶される。拒絶の仕方については後述しよう。
星を手にたたき付けるカットとそれに反応するキョンのカット、これら2カットがやや唐突に感じられ、それが面白いので、気になってしまうんだなあ。
◆白色を追いかける黄色
リボンの色から、黄色はハルヒを表象する色の一つだと言える。この第21話には黄色いものが星以外にも、目立つ形で描写されている。風船とBB弾である。そして、黄色と対になるように白色のそれらもまた描写される。黄色がハルヒならば、白色は?おそらくキョンであろう。この作品における一般人として、あるいはハルヒの撮る映画における一般人としての中立性、どちらにしてもニュートラルな存在者としてのキョンのカラーとして、白は相応しい。
注目すべきは、白を追うように黄が現れることではないか、と私は思う。風船について言えば、最初に描写されるのは白色の風船であり、その後、それを追いかけるように黄色い風船が現れる。BB弾についても、作品内時間的には白→黄の順で現れる。黄は白に「後続する」と考えると、実はイニシアティブを握っているのはキョンであると考えることができるようになり、それが面白い。
なぜ風船なのか?という問いはどうでもいいことかもしれないが、空に浮かぶものとしての星と風船の共通性は指摘することができるが、カットはBB弾から風船に繋げているのだよな。
◆拒絶?−手のひらの上のハルヒ・ペアルック・クレジット−
キョンの手のひらにもたらされた黄色い星は、ラストカットでは黄色いBB弾へと姿を変える。それをキョンはどうするか。弾き飛ばしてしまうのである。「俺たちが考えることなど何もない」と皮肉にもとれるセリフを呟きながら、キョンハルヒとの相互依存の関係を拒絶していると考えられなくもないのだ。
さらに。本編撮影の日の集合場所のシーン。ハルヒキョンはよく似た青い半袖のパーカーを着ている。ハルヒはそれに気づいているようで、どことなく愉快そうに見える。それに対してキョンはと言うと、暑そうにしていて、今にもパーカーを脱いでしまいそうなのだ。実際に脱いでしまうことはないが、二人が同じであることへの拒絶に見えなくもない。脱いではいないので、二人は基本的に、同じ(相互贈与関係)であり続けている。ここで一つ奇妙なズレを指摘しておこう。EDのクレジットだ。「キョン 杉田智和」の文字だけ、妙にずれている。ここにキョンの歪んだ在り方を見て取ることもできるかもしれない。
◆まとめ
要は、ハルヒキョンに相互依存を要求しているのだけれど、むしろ主導権はキョンが握っていて、キョンハルヒの要求を拒絶しているように見えなくもないということ。ただし、完全な拒絶ではないのだろう。
あんまりすっきりしない文章になってしまったが、いつものことか。妥当性すら危うい。
◆天国と地獄(だっけ?)
ハルヒ可愛い。声が良く働いている。顔の表情も良いのだが、アニメキャラの顔には限界がある。その限界の向こう側は声の表情の領域だ。駅へと向かうハルヒは「ちゃんちゃんちゃかちゃかちゃんちゃちゃかちゃか」みたいな感じで、歌っているのだけれど、それだけで楽しい。声はコンテクスト無く意味する、とは私が常々思うことだが、その真実であることを感じる。この旋律を伴った声は、作品からは半ば独立している。それでも、その調子から、ハルヒがすっげえ楽しそうだということが分かる。どういう表情で歌っているのか、(描写される表情と総合的に、しかしより顔らしく)想像できる。その顔はアニメではなかなか描けないものかもしれない。けれど、十分に、声が顔なのである。平野綾を率直に褒めてしまう。最後の「ちゃ!」、かわいい。
◆余
俺は京アニの作品が割と好きなのだけれど、何故、好きなのかといえば、見ていて、「ひっかかり」が多いからかもしれない。その「ひっかかり」を人は演出と呼んだりするのか。良く分からない。

谷部原稿を書きながら声優について考えていたこと

もう既にかなり記憶の彼方なのだが。

俺は、面倒なことが嫌いだ。だから、何事も出来るだけ単純に思考したい。そこで俺は、アニメを見るときには、アニメの外側には何もないつもりで見る。そんな態度は、おそらく不完全にしか遂行できるものではないのだけれども、出来るだけそういう態度で見る。アニメは多くの人が関わり、複雑な工程を経て、ようやく出来上がるものだと思う。けれども、そういうアニメの外側のことには全く関知しない。ただ、完成したアニメという単純なものだけがそこにある、それだけで十分だと俺は考えている。ただアニメを視聴するだけの俺たちにとっては、アニメの背後にある事情などどうでもいい。視聴するアニメが全てである。そして、視聴されるアニメからは、アニメの背後へと遡るというようなことは、十全に達成できることではない。ある程度は推し量ることもできようが、それがさほど建設的とは思えない。*1
そして、アニメの外側には何もないと考えている人間には、声優というものが思考できない。俺にとっては、アニメキャラが喋っているのだと解しても何の不都合もないのだから。キャラクターの発する音声について、例えば、かわいいと思ったらキャラクターについて「かわいい」と言えば良いだけだ。むしろ、声優という非実在について思考することは、誤謬ですらある。幽霊について語るようなものだからだ。それでも、俺が声優について書かなければいけないとすれば、どのようなことを書けばいいのだろうか。それが今回の出発点である。それは矛盾でしかない。だから、無茶苦茶なことを書いた。声優が実在するという立場から書いていれば、まあ、まだ谷部らしい文章が書けたかもしれないなと思う。

どうしても作品の外部を要請しなければ声優というものが見つからない。外部性を密輸した。而して、その外部性が常に既に作品へと回収されるという運動の中にあることにしてみた。そうとでもしなければ俺にはどうにもならなかった。
作品の外部ということで着目したのが、音声としての言葉の韻律的な側面である。アクセントの強弱、音の高低、母音の長短、リズムや休拍など、音声としての言葉には音楽に似た面がある。この言葉の音楽性を声の表情と呼ぶことにした。何故、それが作品の外部性でありうるのか。難しい。はっきり言って根拠は何もない。言葉の音楽性が作品の外部でありうるなら、作中で流れる音楽などはどうなるというのか。やはり無茶苦茶を言っている気がして、もう放り投げてしまいたくなる。けれども、言葉の音楽性/声の表情は、音楽とは少しばかり性格を異にしているのも事実である。それは音楽ではないのだ。言葉なのだ。そして、言葉に先行しながらも、いまだ言葉ではないものなのだ。声の表情は、言葉に先行している。言葉にならない叫びであろうと、それ自体の表情により、意味を持つからだ。だが、やはり言葉ではない。*2
ありふれた挨拶の言葉について考えてみよう。「さようなら」という言葉。その辞書的な意味は固定的である。けれども、どのように発声されるかによって、その実際の意味合いは全く変わってしまうだろう。もう二度と会いたくないほど憎んでいるのか、すぐにでも再会したいと願っているのか、例えばそのような意味の差異が声の表情によって生み出されうる。しかし、それはまだカテゴリーの内側にある。だが、直ぐにでも再会したいと願う「さようなら」の発声においても、それは一通りではなく、様々な異なりが存在するはずだ。そして、この考えを推し進めていくと、もはや類型的に記述できない事柄と異なりにたどり着くことになる。声の表情はここでは細かな襞のようである。音声としての言葉は、その襞によって、作品を逃れ出てしまう。
作品/類型/カテゴリーというような言葉はここでは同じような意味で使っているのだが、これらの言葉の意味を説明するのは、俺が良いように使っているだけなので、大変だ。簡単に。作品やキャラクターは類型を免れないという考えを前提している。ある作品のある場面であるキャラクターはどういう風に喋るのか、ということは類型的にある程度は推測できると考える。その類型を、声の表情は揺さぶるのである。絵筆が輪郭線に届かなかったりはみ出たりするように。*3
声の表情の細かな襞は、類型を逃れるがゆえに、作品の外部であると言いうる。けれども、それはまぎれもなく作品の内部での出来事なのである。常に既に、声の表情の生み出す振れ幅は作品へと送り返される。

書いてもあまり意味がないように思えてきたので、ココで止めておく。
参考にした論文があるので一応紹介。
熊野純彦『ことばが生まれる場へ』(岩波講座『現代社会学5』1996年所収)

岩波講座 現代社会学〈5〉知の社会学/言語の社会学

岩波講座 現代社会学〈5〉知の社会学/言語の社会学


上のダラダラした文章を書く前にさらにダラダラした草稿を書いてしまったので、それもついでなのでupしておく。書いた本人が途中で嫌になるくらいの代物なので、読んでも怒らないでね。つか、読むな。

*1:無論、これは視聴者としての立場に立った場合の考え方である。俺は常に視聴者としてのみ「アニメ」を思考するわけではないので、異なる立場もありうる。但し、このブログを書く上では、視聴者としての立場を一貫しているつもりだ。

*2:ここまで考えてみて気づくが、声に限らず作品内の全てのものが程度の差はあれ、作品を解体する力を持っているようにも思われる。

*3:問題:この類型はどのように知られるのか。

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